東京電機大学
教授 片山 恒雄
マーク・クリアチコ(Mark Klyachko)は、ロシアのサハリンを中心に地震・火山防災に活躍してきた。サハリンに本部があるにもかかわらず、そこにメイルを送ってもなかなか返事が来ず、実はセントペテルスブルグにいることも多い。マークは何回か東大生研のINCEDEにやってきた。かれがくるときは、いつも私たちが忙しかったこともあり、なんとなくキチンと対応しなかった(反省している。)。マークはどこか風采のあがらないところがあって、上手とはいえない英語で強引に話しかけてくる。いちいち答えるのが面倒だったのが、正直なところかもしれない。わざわざINCEDE を訪ねてくれたのに、2,3日間ほとんど誰も相手にしなかったこともあったように思う。まったく、大人げなかった。それにもかかわらず、海外の会議で会うといつも親しげに挨拶をしてきた。ロシアの景気が悪くて、国外の会議に出席する研究者がほとんどいなかったころにも、マークとはいつも顔を合わせた。お嬢さんがルフトハンザに務めていて、航空券がほとんどただに近い値段で手に入るということは、ご本人から聞いたような気がする。
ひとつ、マークに関して強烈なイメージが残っている。1994年にウィーンで開催された第10回ヨーロッパ地震工学会議でのことだ。公式ディナーの後、私たちが借りてきた猫のようにボールルームの脇のテーブルにすわっているなかを、マークはパートナーをつぎつぎと替えながら中央のホールで華麗なステップを踏んでいた。風采が上がらないのは、私たちのほうだった。マークはもともと目が悪かった。2008年の北京の世界地震工学会議で会ったときは、完全に失明していて、女性の方に手を引いてもらっていたが、”Hi, Mark !”と声をかけると、すぐに返事をしてきた。「あぁ、あんなに邪険にしたことがあるのに」と思うと、自分がいやになった。もう1つの思い出は、彼が是非にというのでWSSIの理事がセントペテルスベルグまで行って開いた講演会のことだ。私は防災科研の仕事が忙しくて参加していないのだが、マークの意気込みとは裏腹に聴衆は10人にも満たなかったという。
ジャック・リン(Jack Rynn)はオーストラリア人の地質学者、クイーンズランド大学卒業、一時教鞭もとったらしい。ビール好きでメタボ腹、「イエス」のかわりに「イェー」という典型的なオーストラリアンである。私も3年以上オーストラリアで暮らしたから、「典型的なオーストラリアン」を見分ける能力はそこそこ持っている。(このシリーズの(その1)をお読みいただきたい。)最初に会ったのは、1993年2月にWSSIがバンコクで開催した会議のときだった。INCEDEにも数週間招いた。
本人は、個人営業に近い小さなコンサルタントをやっていた。その業務の一つとしてオーストラリアの都市の地震ハザードマップをつくったりしていた。正直なところ、あまりレベルは高くなかったが、オーストラリアの地震活動のレベルを考えれば、十分だったのかもしれない。ジャックの強みは、このような仕事をとおして知り合ったたくさんの(主に)お役人たちであった。彼らが、オーストラリアを代表するかたちで、国際防災の10年(IDNDR) 関連の国際会議に出席するのだ。自然と、ジャックの存在は国内外で大きくなった。私たちもいくつかのワークショップに招いたし、なによりも、開けっぴろげで陽性な人柄は多くの人に好かれた。その前から、オーストラリアは南太平洋の島国の防災対策に協力していたから、バンコク・ワークショップやフィジーで開催した津波ワークショップでは大活躍してくれた。
兵庫県南部地震の翌年だった。クイーンズランド州の保険関係の人たちに神戸地震の話をする機会をつくってくれた。顎足つきである。ゴールドコーストにも近いところだったのに、最短の旅程で帰ってきてしまったのが、今になると心残りだ。だんだんと体力が落ちている今日この頃になって、あのときに多少無理を言っても旅程を伸ばしておけばよかったと思うことが多いが、あとの祭りである。IDNDRが終わってからは、ジャックに会っていない。(ということは、10年以上会っていないということだ。)風の便りに、オーストラリアは景気が悪く、小さなコンサルはたいへんだという話を聞いたこともあったが、いまは何をしているだろうか。
ジュゼッペ・グランドーリ(Giuseppe Grandori)は、1988年から1992年までIAEEの会長を務めたイタリア人である。私がお手伝いした3人の会長の1人だったが、私のようなグータラ事務局長でも務まった古きよき時代のIAEE会長である。当時のIAEEは、地震工学者の国際的な同好会といってもよかった。(このシリーズ(その5)を参考にしていただきたい。)いくらグータラ事務局長でも、ときには会長の判断を仰がなければならないが、グランドーリ会長からは、こちらが忘れたころになって、(少し大げさに言うと)やっと、”Yes” または “No”という3文字か2文字の回答を受け取ることが多かった。私が会長のときは、なるべくグランドーリ会長のやり方を真似ることにした。
グランドーリ会長の奥さまが実にすてきな方だった。あれをアッシュブロンドというのだろうか、銀髪で小柄でスタイルもよく、世界地震工学会議などでは会長よりも奥さまにお会いするのが楽しみだった。奥さま自身が数学の研究者で、夫婦共著の論文もあり、私たちは、「あれはきっと奥さんが書いたに違いない」などと言っていたが、要するにみんなが奥さまびいきだったというだけのことだ。
グランドーリ会長はアルピニストだった。お兄さんはもっと本格的で、アルプス山脈に名前のついたルートがあるとのことだ。これは、ハレシュ・シャー(Haresh C. Shah)から聞いた話だ。あるとき、グランドーリ会長のお宅に泊めてもらった。ちょっと山登りをしようというので、軽い気持ちでついていったら、尖塔のようなピークが2つ並んだ山を登りだした。1つのピークの頂上に着いたら、もう一方のピークにザイルを使って移らねばならない。切り立ったがけを見ると足がすくんで動くこともできず、グランドーリ会長に助けてもらってなんとか帰ってきたが、二度と彼とは登山はしたくないと言っていた。(グランドーリは、昨年の秋に亡くなった。)
シェルドン(シェル)・チェリー(Sheldon Cherry)は、1996年から2000年までIAEEの会長を務めたカナダ人、ブリティッシュ・コロンビア大学教授だった。今でも、大学とは関わっているらしい。私が東大生研に移って間もないころ、上司の久保先生が何かのフェロウシップでシェルを半年ほど日本に呼んだ。もう少し短かったかもしれない。そのときの印象が彼には強烈だったようだ。まぁ久保慶三郎という大学教授らしからぬ大学教授には、シェルでなくても強い印象を覚えて不思議はない。シェルに会うと話に出ることのひとつは、久保先生と一緒に行った大相撲である。そのときのテープを今でもときどき懐かしく見なおすそうだ。私は、彼を連れて東京湾横断道路の基礎工事を見に行ったときのことを思い出す。大きな直径のケーソン基礎を上から覗いて、その底に見事に配置された鉄筋がまるで芸術のようだといっていた。2004年の世界地震工学会議はカナダのバンクーバーで開催されたが、たいへん効率的に運営されたのでかなりの剰余金が出た。国際地震工学会の窮状を知るシェルは、その剰余金をIAEEに振り込んでくれた。有難いことである。
ハレシュ・シャー(Haresh C. Shah)との付き合いは長い。WSSIの理事として創立以来一緒にやってきたし、二人で企画した国際ワークショップもいくつあるか思い出せない。もはや腐れ縁といってもいい。1980年にアメリカを少し長旅して、スタンフォード大学を訪ねたときに、それまで面識がなかった私をサンフランシスコ空港まで出迎えてくれた。今はRMS (Risk Management Solutions) の CEOを務める長男がまだ中学生か小学生だった。それから何回かは、スタンフォードを訪ねると彼の家に泊めてもらった。仕事などで東京に泊まるようなときは、奥さまともども、一緒に食事をすることも多い。奥さまは、戦時中インドネシアで日本軍に拘束されておられたらしい。
一度は、彼が別荘を買うというドライブに付いて行った。ハレシュが建築会社の人とモーテルで交渉している間、奥さんとプールで泳いで過ごした。結局その別荘を買ったのだが、しばらくして、あれはどうしたと聞いたら、地元の若者が入り込んでワインを飲んだりやりたい放題をするので売ったと言っていた。あのとき、すぐそばにもう一軒あるからお前も買わないかと勧められたのを、断っておいてよかった。(要するに、そんなお金はなかったのだが。)スタンフォード大学を引退するときの記念講演会に招待されて長めの講演をした。
1992年の9月から3カ月間、ShahはサバティカルリーブでINCEDEに滞在した。(このシリーズの(その7)参照。)このときは、亡くなった清水建設の渡部丹さんに大いにお世話になった。宿舎は田町の駅の海寄りだった。連絡用にと携帯電話を借りてあげたが、当時の携帯電話は建物のちょっと裏側になったりするとつながらないことのほうが多く、あまり役に立たなかった。
始まって間もないころのWSSIの事務局は実質的にINCEDEが担当していた。そんなわけで、二人が中心となって企画した活動がいくつもある。思い出すまま、順不同でリストアップしておこう。
それに、WSSIをノン・プロフィット会社としてシンガポールにつくってからは、毎年最低1回はシンガポールで理事会を開く。最近のハレシュの最大の関心事であるマイクロインシュアランスの災害への応用のワークショップも毎年1回シンガポールで開かれ、私はこれにも出席していた。(この2年ほどは、シンガポールにも行かず、彼の顔を見ていない。)
1993年2月、ニューデリーで開催されたIDNDR科学技術委員会に2人で出席したときのことである。ニューデリーの郊外に住む親戚に会いに行くのに付き合った。タクシーで2時間くらいのところである。タクシーは無事目的地まで行けるかが危ぶまれるような車だったが、案の定帰り道で完全にえんこしてしまった。ドライバーが車の下にもぐり込んでいろいろ調べたが、どうもパーツを新しく調達しないと直せないらしい。彼は通りがかりの車に乗せてもらってそのパーツを買いに行ってしまった。残された私たちの周りには、囲まれた草地の中で馬が草を食んでいるだけ。通りかかるのも自転車か大八車。それでも小1時間待ったが、とうとう我慢できなくなってちょうど通りがかったタクシーで近くの町(と言っても、ニューデリー郊外の100万都市の1つ)まで行き、そこでさらに別のタクシーに乗り換えてニューデリーに戻った。ちょうどホテルの中に入ろうとしたときに、パーツを買いに行ったドライバーもホテルに到着して、泣きそうな顔で帰りの運賃を要求してきた。ハレシュは断固拒否して、一銭も払わずじまい。このあたりもまたインド人はすごい。
(シリーズ「私の国際交流」全体の終わり)
Copyright (C) Japan Association for Earthquake Engineering. All Rights Reserved.