リアルタイム地震・防災情報利用協議会
会長 片山 恒雄
私は、独立行政法人・防災科学技術研究所の理事長を辞めてから3年間、東京電機大学の特任常勤教授を勤めさせていただいた。定年を迎えた2010年4月からは、寄付講座「ライフラインを中心とした都市の防災」にやはり3年間勤めた。いずれも、電機大学の安田進先生が中心となってお世話してくださったものだ。寄付講座の方は、電力やガス、建設会社、コンサルタントなどライフラインに関連した企業に声をかけて立ち上げてくださった。2013年3月でこれも終わり、今はNPO法人「リアルタイム地震・防災情報利用協議会(REIC)」の会長である。
2006年に設立されて以来、REICは、高度利用者向けの即時地震情報の配信と関連の研究、調査を主な業務としてきた。最近は、会員事業者のレベルも高くなり、独自に気象庁の情報を受けて必要な解析ができるところも増えた。また、REICと同じような情報を発信する団体が増えてきたこともあって、会員の数は漸減傾向にある。そんなわけで、理事も会長も全員無給だが、家内が言うとおり、「行くところが有るだけ良いわよ」である。引退したあとで大切なのは、「キョウイク(教育?)」と「キョウヨウ(教養?)」だそうだ。「今日行く(キョウイク)ところがある」と「今日用(キョウヨウ)がある」のことである。設立以来、「リアルタイム地震情報利用協議会」と称してきたが、活動の幅を広げることを目指して「・防災」を挿入するように定款を変え、正式の認可を得たばかりである。
ライフラインという言葉が使われ始めたのは
読売テレビ報道部の道浦さんのブログ「ことばの話」によると、2003年頃(10年も前のことだ。)、関西地区の新聞用語懇談会の席で、カタカナ語について話し合っていたときに、「ライフラインという言葉は、いつ頃から使われ始めたか」という質問が出たそうだ。阪神淡路大震災(神戸地震)をきっかけに、一般的に使われるようになったのは間違いない。だが、それ以前にも使われていたかとなると、誰もはっきりと答えられなかった。会社に帰ってから、「ライフライン」をキーワードに、新聞5紙を検索してみると、1975年から2003年5月20日までの「ライフライン」の総登場回数は5727回、その94%が、1995年以降に出ていることがわかった。
これも道浦さんによると、「ライフライン」という言葉が初めて新聞に出たのは、1981年5月23日。日経新聞朝刊の文字数114字の記事だという。
「地震から水道管やガス管、送電線など生活に欠かせない施設(ライフライン)を守る技術を日米が共同で開発していくことになった。茨城県・筑波研究学園都市にある建設省土木研究所で開かれていた日米天然資源開発会議の部会で22日決まったもの」
私は、この会議に出席していたと思うが、このあたりの経緯は覚えていない。要するに、ライフラインという言葉は、1980年台にメディアに登場し、1995年神戸地震のあとで社会に定着した。横文字のライフラインは、「命綱」という意味である。だいぶ前のことだが、台湾のホテルの窓際に、緊急時に窓から下ろして使うロープが置かれていて、 “Lifeline” と書いてあるのを見かけたことがある。
ライフライン地震工学の揺籃期
専門用語がメディアに定着する前には、その揺籃期とでもいうべき期間がある。ライフラインの場合、それは1970年代だった。1971年2月9日、ロサンゼルスの北郊外にサンフェルナンド地震が起こった。構造物の被害も広い範囲にわたったが、とくに注目されたのは、ガスや水道など都市供給施設の被害である。1973年に、米国の海洋大気圏局と商務省が発表した報告書は、
第1巻「建築構造物への影響」(841ページ)
第2巻「供給施設、交通機関、及び社会的な側面」(325ページ)
第3巻「地質学及び地球物理学的研究」(432ページ)
の3冊からなる力作だった。とくに、第2巻は、地震が社会に及ぼす影響など、従来の地震被害報告書ではあまり扱われていなかった分野に丁寧な考察を加えた画期的なものだった。仮に構造物の被害が小さくて済んでも、地震後の生活に大きな影響を及ぼし、復旧に多くのお金と長い時間がかかる地震があるという警告であった。
以前から、このような問題に強い関心を寄せていたカリフォルニア大学ロサンゼルス校土木工学科のデューク教授が、米国土木学会の中にTCLEE(Technical Council on Lifeline Earthquake Engineering)をつくったのは、1974年のことだ。TCLEEは、1979年4月に、Journal of the Technical Councils of ASCEの発刊を始めた。私は、その第1号に、久保慶三郎先生、土木研究所の大橋雅光さんと共著で、“Lifeline Earthquake Engineering in Japan”という論文を発表している。
1970年代も終わりに近い1978年6月、宮城県沖地震が起こり、28人の犠牲者(うち、18人がブロック塀の下敷きで死亡)を出した。仙台市内の構造物被害はそれほど大きいとは言えない。じっさい、代表的と思える被害現場に行くたびに、前の現場でも会った研究者のグループに会うことも多かった。そんな中で注目されたのが、電気、水道、ガス、交通機関などの被害である。仙台市とその周辺で13万戸への供給を停止した都市ガスの被害復旧に4週間かかったことを別にすれば、その他の都市供給施設は2,3日から1週間で復旧した。しかし、この震災による機能マヒから60万都市の市民が受けたショックは大きく、わが国で初めての都市型震災と言われた。
これら2つの地震に挟まれるようにして進んだのが、東京都区部の被害想定である。1970年代の初めごろから、東京都は地震被害想定作業を始めていた。地盤の調査、揺れの想定、木造家屋の被害、火災の被害の想定作業は一段落していたが、都市の被害にはまだいろいろなものが残されていた。私は、久保慶三郎先生のお手伝いをして、水道・ガスの地下埋設管と道路橋の被害想定を担当した。被害想定などやったこともなく、それまで、「地下埋設管」という言葉さえ聞いたことがなかったような気がする。
東京都区部における地震被害想定結果は、宮城県沖地震の直前に発表されたばかりだった。1970年代前半、わが国では、「ライフライン」という言葉は、専門家の間でも使われていなかった。私は、サンフェルナンド地震が起こった1971年に東京大学生産技術研究所に勤めはじめ、神戸地震の翌1996年に57歳で東大を辞めた。久保先生は、神戸地震の年の6月にお亡くなりになった。
(その1の終わり)
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