リアルタイム地震・防災情報利用協議会
会長 片山 恒雄
来年は、新潟地震が起こってから半世紀になる。
すでに16年も経っていたが
宮城県沖地震の被害を調べていて思ったことがあった。1964年新潟地震の新潟市の被害は仙台市以上のものだった。そのとき、私はシドニーにいた。当時は、地震が起こったからといってちょっと日本に帰ろうなんてとんでもない話だった。航空賃も高かった。羽田-香港-マニラ-シドニーの切符は片道で16万円近くしたと思う。いまの価値でいえば60万から70万円というところだろうか。「あ、そうか、日本で地震が起こったのか」と思ったくらいで、大変な地震だったことは後になって知った。液状化で信濃川の堤防が決壊し、津波が遡上して、復旧の車を動かせなかったところもあった。地震のことを本気で考えていた自治体はほとんどなかった頃の話である。
今からでもいいから、新潟地震の被害を見なおしてみよう。当時の私たちの思いを書いた文がある(生産研究、1981年1月)。
「いわゆるライフラインの地震問題が注目を集めだしてからせいぜい10年であり、これに関する研究成果が各所で目に触れるようになったのは、たかだか5年前位からである。この間,われわれは、ライフラインの地震防災においては、来るべき地震災害の予測と発災後の対応計画が、他の構造物の耐震設計と同等以上に重要であることを再三指摘してきた。この意味で、1978年宮城県沖による仙台市の被害は、ライフラインの地震防災に対する貴重な経験を残すことになったが、仙台市の被害は都市震災としては全体に軽微であったと言える」
「われわれは、新潟地震についてどれだけを知っているだろうか。新潟地震による各種構造物の被害については、その後詳細な調査研究の対象となったものも多く、それらの結果が構造物の耐震設計方法に反映され生かされているものも少なくない。上水道及び都市ガス施設についても、新潟市水道局や日本ガス協会の報告書などがあり、いずれも関係者の苦労が行間ににじみ出た労作である」
「従来の報告書は、被害や影響の総量をスタティックにまとめ上げたものが多い。これに対し、われわれの報告では、発災後の対応と復旧の経緯を時間経過の中でダイナミックに眺めるところに重点を置いた…このような形で貴重な経験を共有することが、将来の都市防災に役立つとわれわれは信じている」
地震の発生からすでに16年が経っており、資料の収集は容易ではなかった。原資料がすでに破棄されているものも少なくなかった。とくに、市役所が新しいビルに移ったときに、水道関係の資料はかなり捨てられていた。私たちは、ともかく残された資料をできるだけ集め、関係者との長時間にわたるインタビューを通して当時の状況を聞き出す努力を重ねた。地震が起こったとき北陸ガスの若いエンジニアだった人は、地震後の被害を見て、「これで会社はつぶれると思った」と語った。
原資料を読み解く
宮城県沖地震の調査を通して、加工されていない資料を読みほぐしていくことの大切さに気付いていたから、できるだけそのような資料を集めた。水道に関しては、水道局総務課が残していた「新潟地震に関する綴」「震災関係綴」「応急復旧工事日誌」「新潟地震発生以来の水道局活動日誌抄録」などに加え、「導管被災箇所及び仮配管敷設図」があり、ガスに関しては、北陸ガスの「1965年工務年報」「昭和39年度本支管工事報告書綴」「工事日報(12編しか残っていなかった)」などに加えて配管等の工事内容図を集めた。関係者にとっても、なぜそんなものにまで興味を持つのかわからなかったようだ。一次資料から復旧の様子を再現する作業は大変だったが、ミステリーの犯人捜しのような面白さもあった。
1981年1月、2月の「生産研究」に掲載された「1964年新潟地震による新潟市の上水道およびガス施設の震災復旧(その1)」「同(その2)」は、当時研究室の技官だった新潟県出身の増井由春さんとの共著論文だが、いま読み直しても当時の熱気が伝わってくる。大いなる我田引水をお許し願えるなら、ライフラインの震災調査報告で、その後もあれだけの中身を持った論文にはお目にかかったことがない。増井さんは、その後長岡科学技術大学に移り、いまは(公益財団法人)地震予知総合研究振興会の非常勤職員を勤めている。
仙台に比べて何倍も長い供給停止が続いた。多くのところで断水が3週間から4週間、東新潟では6週間続いたところもあった。市内の水道管は被害だらけ、被害を受けたパイプをいちいち掘り出し、直して埋め戻すのでは、いくら時間があっても足りない。そこで、道端に仮の水道管を浅く埋めて、50メートル程度ごとに共用の水道栓をつけた。はじめは、パイプを道端に転がしていたのだが、車の出入りの邪魔になるということで、浅い埋設に変更した。炊事の水も洗濯の水も、近所の人が一緒に使った。地震が起こったのは6月16日、ほぼ全世帯に水が行きわたったという7月30日の段階で、新潟市の半分の人たちはまだ道端の水道栓を使っていた。水道管の本復旧にはそれから数週間、各家庭の蛇口から水が出るようになるにはさらに数週間を要した。
それでも水道はいい方だった。ガスの復旧は、10月、11月、12月までずれ込んだところが少なくない。冬になる前に絶対に復旧するという突貫工事にもかかわらず、6ヶ月を要した。仙台のガスは4週間で復旧したが、同じ4週間の時点で新潟のガスの復旧率は40%に過ぎない。
だが、「水なし、ガスなし、電気なし」とマスコミがはやし立てた仙台に比べると、新潟地震では都市型震災はあまり大きな問題とされなかった。橋が落ちたり、タンクが燃えたり、広い範囲で液状化が起こったりと、派手な被害がたくさんあったため、ライフラインの被害が影に隠れてしまったことも一因だろう。しかし、新潟の震災と仙台の震災の間の16年間に、私たちの生活のライフラインへの依存度が大きく変わったことも間違いない。洗濯機が普及していたら水の使い方も大きく違ったろうし、新潟市にはまだ下水道がなかった。
調査からわかったこと
いつも便利な生活を享受していると、何らかの理由で、便利な生活の基盤が壊れてしまったとき、困ることもまた一層大きいということなのだ。私は、1985年メキシコ地震の被害調査に参加する機会があった。私たちは、東京は近代都市だと思っている。しかし、メキシコ市は都市空間的に東京よりよほど余裕がある。街路は広く、歩道の幅も東京の4,5倍はある。そこに、大型の給水タンクを置いて、何十トンという給水車で水を入れて回る。もともと水道が十分に普及していないところがあるため、地震がなくても大型給水車を使った給水体制がとられている。言うなれば、常時から災害に近い状況に慣れているのだ。
メキシコ地震の調査では、水道やごみ処理、発災後の報道などにも手を出した。一緒に調査に行った人たちが集まると、水道局に行って、大きな地図にパイプの破壊箇所を虫ピンを刺して示したものを読み取った話とか、鉄筋と仕分けしたコンクリート殻を捨てる大きな穴を見に行った話とか、従来の被害調査と違ったことをしようとした思い出話になる。調査団は、25人ほどのメンバーだったと思うが、7、8人の有志がいまも「メキシコ会」なる同窓会をつくって集まっている。その中心メンバーだった佐伯光昭さんが、つい先日お亡くなりになった。
宮城県沖地震と新潟地震の調査からいくつかのことがわかった。
ひとつは、液状化が地中に埋もれたパイプの被害に非常に大きな影響を及ぼすということ、また、地震に対して強いパイプと弱いパイプの違いがはっきりしていることだ。ガス管や水道管に使われる、ねじを切ってつないだスチールのパイプは地震に対して弱い。今では常識だが、50年前には必ずしも常識ではなかった。
1993年釧路沖地震でねじ接合のガス導管が大きな被害を受けたことを教訓に、1995年の「ガス工作物の技術上の基準の細目を定める告示」の改正の際に、都市ガス事業者は原則埋設部でねじ接合鋼管の使用を禁止した。それ以前から自主的にねじ接合鋼管の使用を止めていた事業者もあったが、これを機に都市ガス業界が一律で禁止を定めたのである。きわめて速い対応だった。関東地震のあと、レンガの使用を止めたことに匹敵する大英断である。しかし、この定めは、新設のものにしか適用されない。大事業者を中心にまだ膨大なねじ接合鋼管が残っている。入れ替えは、着実に進められているが、一朝一夕に終わるわけではない。
三番目の教訓は、システムとしての地震対策が重要ということである。新潟市のガスや水道は、木の根っこから幹、枝と順次分かれながら供給するシステムだったから、どこかに被害が起こると、その先には供給できない。新潟の復旧計画の中では、ライフラインの供給ネットワークをシステムとして地震に強くすることが考えられた。このことは、言うは易しいが、すでに出来上がったライフラインを変えることは現実にはきわめて難しい。
四番目の教訓は、事後対策を事前に考えておくことの大切さである。最近では、多くの自治体の被害想定の中で、モノが壊れる、火事が起こるに加えて、ライフラインの被害や都市機能の低下が重視されるようになっている。水道やガスの事業者がお互いに話し合っておき、地震被害が起こったときには全国規模で助け合おうという体制が整えられているが、このような事前対策は新潟地震がきっかけとなって始まったものだ。
もう一度、仙台の地震に話を戻そう。1978年当時の仙台市の人口は65万、周辺の市町村を含めると100 万ぐらいの都市圏だった。そこで死者が20数人、倒壊家屋が数百戸というレベルの地震だったから、多くの人は翌日から働きに行こうと思えば行ける状態だった。かえってライフライン被害が目立ったといえる。都市型震災が本当にありそうだ、供給施設がストップする震災は、構造物が壊れる震災より度々起こるのかも知れない。みんなが何となくそんなふうに考えるようになったのが1978年の宮城県沖地震だった。しかし、この辺から私のような人間は、「ライフライン」「都市型震災」と囃したてすぎた。生活が壊れる震災は起こるかもしれないが、もう日本では大規模に「モノ」が壊れる震災は起こらない、何千、何万という人が死ぬことはないだろうなどと思い始めた。これに冷水をかけたのが、1995年神戸地震と2011年東北津波地震であった。
(その3の終わり)
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