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志賀敏男先生を偲ぶ

東北大学名誉教授、東北文化学園大学大学院教授  柴田 明徳

 本会名誉会員の志賀敏男先生は、平成21年10月19日に満86歳で逝去されました。ここに謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 志賀敏男先生は大正12年(1923年)3月27日に東京都でお生まれになりました。昭和18年東京帝国大学に入学され、第二次大戦のさ中に学生生活を送られて、昭和21年9月に工学部を卒業されました。その後東京大学大学院において、武藤清先生及び梅村魁先生の下で建築耐震構造の研究に従事されました。戦後まもなくの昭和21年南海地震や昭和23年福井地震の際には、梅村先生と共に精しい被害調査を行っておられます。大学院時代から建築物のねじれ振動に関する理論的研究に取り組まれ、その成果により昭和39年に日本建築学会賞(論文賞)を受賞されました。

 昭和26年には東北大学工学部に助教授として赴任され、開設間もない建築学科の教育研究の推進のために日夜尽力されました。塩釜の火力発電所の建物を譲り受けて始めた建築実験所では、手作りの遠心力式大型振動台を用いて、我が国で初めての鉄筋コンクリート骨組の振動破壊実験に成功されました。

 昭和40年には東北大学工学部教授に昇進され、建築構造学講座を担当されました。昭和43年の十勝沖地震では、鉄筋コンクリート造の中低層建物に激しい被害が生じ、建築構造界に大きな衝撃を与えました。先生は、被害の詳細な分析から、柱と耐震壁の量に基づいて簡明に耐震性能を評価する「志賀マップ」の手法を創案されました。この考え方は、昭和55年の建築基準法改定における新耐震設計法に取り入れられ、我が国の建築物の耐震性を大きく向上させました。

 昭和53年宮城県沖地震は仙台を直撃し、甚大な都市的被害をもたらしました。このとき東北大学青葉山キャンパスにある9階建の工学部建設系建物は、南北方向の1階で258ガル、9階で1040ガルという大きな加速度を記録しました。この厳しい地震力に対して、この建物は耐震壁にややひび割れは生じたものの、見事に耐えたのでした。後に行われた建物の部材ごとの非線形特性を考慮した地震応答解析の結果は、実際の強震記録と非常によく一致し、弾塑性地震応答解析の有効性が初めて実証されました。

 この地震に対して文部省自然災害特別研究による総合的な研究が行われることになり、先生はその研究代表者として、東北大、東大、京大、東北工大の理・工系、人文系の多くの研究者の協力のもとに、「都市生活機能の被害予測と保全」という新しい研究の方向を打ち出されました。

 先生は日本学術会議の第13期及び第14期会員として同地震工学研究連絡委員長を務め、学術の発展に尽力されました。学会活動においては、日本建築学会副会長、日本コンクリート工学協会理事等を歴任され、学術の振興に貢献されました。また、国際地震工学会の日本代表として、地震工学の発展に貢献されました。地域の地震防災対策にも積極的に取り組まれ、宮城県や仙台市の地震対策専門部会の委員長として地震に強い街づくりに尽力されました。平成10年には、長年にわたり耐震工学及び自然災害科学の発展に寄与した一連の功績により、日本建築学会大賞を受賞されました。

 先生は昭和61年に東北大学を退官されましたが、東北大学及びその後の東北学院大学における先生の長い教育研究の日々は、常に学生と共にあり、共に歩む日々でした。先生の学問に対する真摯な姿勢と温かいお人柄は学生たちを魅了し、ひとりひとりが自分なりのやり方で、ものをよく見ること、そしてよく考えることの大切さを先生から学びました。

 先生とお酒は切っても切れないものでした。また、先生は音楽を深く愛し、常に歴史や文学の書物に親しまれ、そして、その深い知恵をいつも惜しみなく私たちに分け与えていただきました。学生たちの同期会や同窓会にはほとんど全て出席して、皆を励まして下さいました。

 私たちの心の支えであった先生の温容に再び接することができないと思うと、本当に残念でなりません。先生、どうぞ安らかにお眠り下さい。

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