東京電機大学 教授 片山 恒雄
関東大震災が起きてから85年経った。先日の学期末試験の質問の1つで、自然災害によるわが国の死者数を示す棒グラフから、犠牲者の多い2つの災害の名前とそれらを契機としてできた法律を聞いてみた。1つは、兵庫県南部地震であり、さすがにこれを間違えた学生はいなかった。もう1つは、6千人近い犠牲者を出した、昭和34年伊勢湾台風である。回答者は、修士課程の学生19人だったが、そのうちの2人が昭和34年の災害を関東大震災と答えたのには、ちょっとびっくりした。それだけ昔の話ということなのだ。
関東地震については膨大な記録が残されている。しかし、地震が起きた時やその後の状況、当時と今の違いなどが十分知られているとは思えない。長いあいだ信じられてきた「死者・行方不明合わせて14万人」という数でさえ、最近、大幅なダブルカウントがあるのではないかといわれている。1923年9月1日は何曜日だったかご存じだろうか。
よく知られた話
これは、プロの間では、よく知られた話である。東京に大地震が来るかどうかで、当時、東京帝国大学地震学教室の2人の地震学者の意見が強く対立していた。主任教授大森房吉と助教授今村明恒である。大森はエリート教授、3歳年下の今村の本務は陸軍幼年学校の教官で、地震学教室のほうは無給の兼務だった。
関東大震災の後、今村はこう書いている。
「私は1905年、ある雑誌を通じて、近い将来に東京は破壊的な地震に見舞われ、一帯の火災となる。もし消防の組織や機関が改良されていないならば、10万あるいはそれ以上の人命を失うかもしれない。・・・しかしながら、世の中の人は私の言葉を信じようとしなかった。事実、ある有力な学者の如きは、そのときもそうだったが、1915年にもう一度警告したときにも、社会に恐慌を引きおこすような風評に過ぎないとして、私の意見を非難された」
この「ある有力な学者」が大森であった。
関東地震が起きたとき、大森は国際会議に出席するためオーストラリアにいた。9月1日、シドニーのリバービュー天文台の台長のランチに招かれ、食事後、台長の案内で地震観測所に赴いた。現地時間の午後1時過ぎ、大森が観測室の地震計の前に立っているとき、地震計の針が大きく動き出し、大森はそれが東京付近で発生したらしいことを知りがく然としたという。
大森は学会出席以前から体調を崩していたが、病状は船上でますます悪くなった。10月4日、今村は、横浜に着いた大森の船室を訪れ、震災の状況を報告した。大森は、「今度の震災について自分は重大な責任を感じている。譴責されても仕方はない」と、語ったという。大森はそのまま入院し、その後、床を立つことなく、1ヶ月後に55歳で亡くなった。
1964年東京オリンピックの年から3年間、私は、シドニーの大学に留学した。私は、それまで被害地震など起こったこともないオーストラリアで地震工学に関係した内容の論文を書いて博士号をもらった。日本の大学で振動とか地震について教わっていたから、こういった内容を選べば少しは有利だろうという発想だったが、日本ならどの大学にもある雑誌や参考書を見つけるのに一苦労した。シドニーの北の郊外にあるリバービュー修道院に東大地震研究所の彙報が揃っていたので、ここに通って日本の先生方が書かれた論文を読んだり写したりした。まだゼロックスなどなく、論文の大切なところはノートに書き写さなければならなかった。修道院が気象観測所の役目を果たしている例は少なくない。何しろ真面目な人たちが規則正しい生活をしているところなのだ。
私を日本人と知った1人の職員が、ある日、その古い地震計を見せてくれた。大森房吉の目の前で大きく針が動きだし、関東地震が起きたことを知ったという、その地震計である。
関東大震災といえば
いろいろな本を読むと、大体次のようなことは書かれている。
1923年9月1日11時58分、相模湾北部にマグニチュード7.9の地震が起きた。関東地震である。地震の揺れが激しかったのは、相模湾沿岸・三浦半島・房総半島先端であり、家屋の全壊率が50%を超えた。
当時の東京府は、東京市15区、八王子市と郡部からなり、全人口は約405万人だった。その56%を占める約227万人が東京市内に住んでいた。(今でいう大田区、品川区、世田谷区、中野区、渋谷区、新宿区などは、15区の地域には入っていなかった。)半焼・半壊以上の被害を受けた家は、東京市で65%、横浜市で62%に達した。地盤の良し悪しが被害を支配した。東京市では、軟らかい地盤が厚く積もった東部下町の被害が大きく、市街地のほとんどが埋め立て地盤の上にあった横浜の被害は東京以上に激しかった。
しかし、それ以上に大きな影響を与えたのは、地震後、東京・横浜で起きた大規模な火災である。結果的には、これが関東地震を関東大震災にした。だいたい消えるまで18時間、完全に鎮火したのは丸2日後であった。東京の場合、176ヶ所から発火、99ヶ所に飛び火したといわれ、合わせて275の火元のうち88ヶ所しか消火できなかった。残りの187ヶ所からの火災は燃え広がったが、市内には38台のポンプ車しかなかったのである。
死者数などは、混乱の中での統計であり、どの数値もあまり信頼できない。従来、行方不明を含めて14万人といわれてきたが、武村雅之さん(鹿島建設)の調査結果によると、大幅なダブルカウントの可能性がありそうだ。私もだいぶ前に検討してみたことがある。行方不明を含めて、東京府でおよそ7万人(うち東京市で6万8千5百人)、神奈川県で3万2千人、その他の県を含めて合計10万5千人程度ではなかろうか。東京市では、平均すれば、33人に1人が亡くなったことになる。広さ6万5千平米ほどの陸軍被覆廠跡で4万4千人が亡くなったという。東京市の死者の3分の2はここ1ヶ所で命を落とした勘定になる。ただし、この数は、被覆廠跡で火葬にふされた遺体の数のようでもある。
レンガ造ビルは弱かった。とくに、上から見た形が非対称なものの被害が大きかった。鉄筋コンクリートビルは強かった。堤防、港、鉄道、道路、水道、電気、ガスなどが大被害を受けた。それでも、被害の少なかった山の手地区では、地震後4日目には電灯がついた。家がほとんど焼け落ちた地域を除いて、電信・電話1週間、電灯・水道1ヶ月、ガス2ヶ月でおよその復旧が済んだといった感じである。思ったよりも短いという印象を受けるが、東京がまだ都市として単純だったからだろう。
さて、最初の質問に戻ると、1923年9月1日は土曜日だった。(その1の終わり)
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