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関東大震災を語り継ぐというが(その2)

 東京電機大学 教授 片山 恒雄


東京じゅうが大被害だったわけではない。

 深発地震の発見で知られ、後に気象庁の長官を務めた和達清夫さんはこう書いている(「私の転機 関東大地震と肺病」、若草の夢、和達清夫先生随筆選集、87−89)。

 「突然大地が揺れ、どすどすと下から激しく突き上げられ、つづいて大きな横揺れに変わると、傍らの書架がどさっと倒れた。窓から見ると、遠く家々から黒煙が立ちのぼり出した。これは四谷の自宅で関東大地震に遭った思い出であるが、時に私は大学2年生であった。その夜私は、下町の方へ様子を見ようと家を出て半蔵門から桜田門へと内堀を歩き、火事に赤く映える下町一帯の空を眺め、自然の猛威に深い感慨を覚えた」

 和達先生は、長いあいだ、東京都防災会議の会長を務められ、東京都の地震被害想定の調査委員会で何度もお目にかかる機会があったが、「関東大震災の被害というと、東京じゅうが大被害を受けたように思われているようだが、四谷の近くでは、ほとんど被害はなかった」と、よくいわれていた。

 消防研究所の所長を務めた中田金市さんも、大学2年生だった(「防災対策の現状と展望」、手記・関東大震災(監修清水幾太郎、関東震災を記録する会編、1975)、新評論、241−262)。

 「大正12年9月1日。その日は、11時半頃昼食がきたので、食べ終わって、さて何をしようかと、机の前に座り直した時、ドンという音とともに突き上げられたと思うと、ユッサユッサとゆれ始めた。柱がギシギシと音を立て、壁の隅がこわれて土煙がもうもうと立ち始めた。『これは地震だ、逃げなきゃぁ』と立ち上がったが、うまく歩けない。『中田さん、早く逃げなさい』と玄関あたりから下宿のおばさんが叫んでいる。階段が前後に動いているので、危うく転げ落ちそうになった。私は東京帝国大学理学部物理学科の2年生で、帰省もしないで、暑い東京に頑張って勉強していた。ところは本郷蓬莱町の下宿屋だった。10人ぐらいいた学生たちは全部郷里に帰ってしまっていて、私の他は、夏休みのない会社員が1人いただけだった。その人は出勤していて、私だけが部屋にいたというわけだ。下宿の小父さんが、玄関の前に籐椅子を持ち出して、『ここに居てくださいよ、中は危ないから』という。その時は振動も納まっていた。どこにも倒れたり、こわれたりした家は無かったので、それほど大きな地震でもなかったんかなと思った」

 東京市の山の手では、家屋の全壊率は2%程度だった。

 当時の東京市の中心は下町にあった。15区のうち、本所、浅草、深川の3つの区だけで、77万人、東京市の人口の3分の1を占めていた。東京市の死者は、これらの3区だけで、全体の93%に達した。死亡者の割合は、この3区では7.0% (14人に1人)、残りの12の区では0.3% (340人に1人)であった。

発生直後の混乱

 東京府非常災害事務総務部日誌というものが残されている。また、被害を受けた地域の区役所の記録も残っている。これらを読むと、地震直後の混乱のようすがわかる。地震の発生は、ちょうどお昼の12時だった。

 午後1時50分、東京府は情報聴取のために係員を警視庁に派遣したが、そのとき、すでに警視庁は火災で焼けつつあった。また、午後3時23分、淀橋浄水場が破損し給水不能になったという情報が入ってきた。午後3時、神奈川県知事から東京府に対して、「横浜市の被害はその極みに達している。食料も水もない」という救援を求める無線電話があった。これに対して、東京府は、「震災には同情に堪えないが、当市も全市にわたる大火災で大被害を被っており、食料・水ともに不足している。お求めに応じられず、まことに遺憾である」と、答えざるを得なかった。東京と横浜のあいだでさえ、お互いの被害の様子はわからなかった。

 大島、三宅島など島嶼部に大きな被害がないことがわかったのは、9月4日のことである。

 午後3時35分には、内務省が火災中で大蔵省も危ないという報告を得ているが、結局、文部省、農商務省、鉄道省、逓信省、そして内務省、大蔵省、警視庁などが焼けてしまった。霞ヶ関がほとんど焼け落ちたという感じだ。

 地震発生の当日は、情報が錯綜するだけで、何の対策も打てないままに過ぎていった。本所区役所の記録には、以下のように書かれている。

 「9月1日のうちは、震災のため家屋に圧せられて生じた傷病者を救出する暇もなく、続く火災に逃げ損ねて火傷を負った人たち数万人に救護の手をつくす見込みもなく、虚しく不幸な人たちの苦悩を見ているばかりだったが、2日早朝、杉山主事は被覆廠跡に至り、傷病者の多さに驚き、市の赤十字社に救護班の派遣を申請したが、思うに任せなかった」

 9月1日、2日の火災で家をなくし、山の手に逃げてきた被災者は、上野公園の約50万人、宮城広場の約30万人を含めて、全部で約120万人といわれる。少し多すぎるのではないかと思うが、膨大な数の人たちが避難したことは間違いない。

 当時の東京には、まだ、ラジオも地下鉄もなかった。電話の加入数は8万4千といわれているが、その59%が焼失した。単純計算によれば、およそ6世帯に1台の割合で普及していたことになる。電話の多くは会社やお役所で使われていたと思われるから、家庭への普及率はずっと低かっただろう。新聞社はほとんど全滅した。震災や復旧の様子を正確に知らせるため、内務省情報部は「震災彙報」を発行した。第1号は9月2日午後7時、1日に2、3回、多いときは5回発行、これを、陸軍と警察の伝令が市内各所に配布した。「お済みになった方は、往来のよく見えるところに貼って下さい」とある。10月25日まで67号を発行した。新聞社が回復してからは、情報部は各種の正確な情報を集め、1日7回ずつ新聞社、通信社に提供した。(その2の終わり)


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