東京電機大学 教授 片山 恒雄
今年も防災の日が来て、日本中で防災訓練が行われた。少数の壊れかけた家の模型や、これも少数の怪我をしたふりの人たちを、その何十倍もの人たちが取り囲んで行う訓練である。実際の災害では状況がまったく逆で、被害を受けた多数の家や負傷者に少数の人たちが対応しなければならない。
本所病院焼失
本所病院は伝染病患者専用の病院であった。当時、180人の患者が入院していたが、その半分は「遺体のようなもの」と書かれている。死んでいるに近い患者という意味だ。地震の発生直後、火災の危険はないように思われたため、動ける患者は建物の外へ避難させ、動けない患者はベッドの下に寝かせた。ところが、そのうち、旋風によって火の粉が降り始めた。外に避難させていた患者をもう一度建物内に移し、万一、火事になったら外へ避難させやすいように全員を1ヶ所に集めた。結局、本所病院の建物は全て焼け落ちた。
幸い、180人の患者にも病院の職員にも負傷者は出なかった。しかし、患者が赤痢や腸チフスであると知って、近くの工場は建物の中に彼らを避難させることを断った。駒込病院の医長以下職員が救援にきてくれるまで、全員が4昼夜を河川敷で過ごさねばならなかった。患者や職員など約300人をトラックで駒込病院に輸送するのに、2日間を要した。当時、駒込病院には入院患者150人がおり、定員外のベッド100床をつくって収容したという。
地震後4ヶ月間のデータを前年同期と比べると、伝染病患者が大幅に増えたことがはっきりとわかる。赤痢が約3倍(約2600人)、腸チフスが約1.8倍(約4600人)、パラチフスが約1.4倍(約230人)になっている。伝染病患者だからという理由で立ち入りを断った工場にも一理はあったわけだ。
9月3日、本格的な対応が始まった
3日(月)に関東戒厳司令部条例が発布され、軍が中心となった組織的・本格的な対応が開始された。報告書に残された被害を表す数値と、当時使うことができた資源を比べると、対応がいかに困難だったか想像できる。
市内の交通機関はほとんど動かなくなった。頼りは自動車だけだったが、その数は少なく、軍のトラックに加えて、市、警視庁のものも徴発して物資の配給に使った。鉄道や船で送られてくる物資を6ヶ所の配給部またはその支部(芝浦、両国、田端、隅田川、新宿、亀戸)で受け入れ、そこからトラックで運送した。組織的に動き出したのは、9月6日である。報告書の数値もわかりにくいのだが、物資の配給用にトラック60台が使用され、さらに45台を突発的用務のためにキープ、15台を破損した場合の交換用としたようだ。
約6万の遺体の火葬には2ヶ月を要した。その95%以上は臨時火葬場で行われ、とくに被覆廠の跡地では、全体の4分の3に当たる約4万4,500体が火葬にふされた。火葬には警視庁と東京府が協力した。この間、9月9日から15日にかけて収容した溺死体1794体は腐食が激しく、臭いもひどく、取り扱いがむずかしかった。
数万、数十万人の避難民の屎尿処理は困難をきわめた。くみ取り作業は7日から始められた。一時期50万人が避難したといわれる上野公園の掃除は、20人の市職員と30人の学生等のボランティアで対応したと書かれている。報告書には、9月下旬までに、埼玉、茨城、群馬、栃木の4県から、肥桶6,055、天秤棒800、柄杓1,800が寄付されたとあり、当時の様子をほうふつとさせる。
工兵隊が中心となり、火災を受けた100棟近い建物や煙突の爆破作業が実施された。今とは違って、ほとんどの建物は3階建て以下である。レンガ造の建物の大半は、床は焼け落ちており、壁や間仕切りだけを爆破すれば良かったが、鉄筋コンクリート建物は上階から順次作業を続けねばならなかった。
9月20日までは証明なしでも鉄道は無賃とした。その後も9月中は市区町村長の避難民証明があれば無賃とし、1ヶ月間で約200万人の避難民を輸送した。10月1日まで罹災地に限って施行されたモラトリアム(支払猶予)の影響は、結果的に日本全体に波及し、事実上全国で支払停止の状況になった。被害を受けなかった地域における継続的な経済活動によって国民経済の回復を図ることはできなかった。
帝都復興予算
地震発生の年もその翌年も、国の予算規模はおよそ13億円であった。1923年の実行予算は約12億9,300百万円、1924年の予算総額は12億9,900万円である。これに対し、地震による直接被害は48億円、うち政府の損害が10億円、民間の損害が38億円という報告がある。民間被害の約70%は東京の被害、残りのほとんどは神奈川県の被害である。これに間接被害を加えた総損失は多めに見積もって70億円という。これは、当時の年間予算の4〜5倍に当たり、当時の国富860億円の8%が一瞬にして失われた。日本は第一次大戦で約40億円の利益を得たとされているが、これを全部吐き出しても、まだ30億円足りないという勘定である。
都市計画を持たない世界的大都市「東京」が白紙に近い状態になった。「いまこそ地図を引くときだ」という思いは強かった。その実現のため、地震直後、東京・横浜を中心に総経費15億円の5年計画が立てられた。しかし、11月22日に閣議決定された復興予算案は、7ヵ年継続事業に対して国が総額7億298万円、これに東京・横浜が起債によって調達する1億7,326万円を加えて、合計7億7,624万円になった。実際に12月に臨時議会に提出された追加予算案では、これが7億2,418万円(国が5億9,775万円、自治体が1億2,644万円)の6ヵ年計画となり、さらに臨時議会で大ナタを振るわれた結果、国費は4億6,207万円、地方公共団体の起債分を含めて5億8,851万円。15億円の当初案は実に40%規模に減らされたことになる。(その3、全体の終わり)
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