東京電機大学 教授 片山 恒雄
あなたはEOS をご存知だろうか。現在、シンガポールのナンヤン大学(NTU)でスタートしつつある “The Earth Observatory of Singapore” のことである。シンガポールは地震や火山の被害を直接受けることがない国であり、そのほかの自然災害の被害もあまり聞いたことがない。だが、ここで、「シンガポール地球観測センター(仮訳)」という壮大な(?)プログラムが進んでいるのだ。
過去2世紀にわたって人類は自分たちのために自然を使いこなす能力を手に入れた。だが、皮肉なことに、この能力こそが地球の気候を不安定にし、もともと住むべきではないところに住むようになってしまった。人類の進歩と自然のダイナミズムが加速度的にバランスを失ったことに加え、地球の変動に対する基礎的な誤解と無関心が、人類が地震、津波、火山噴火、気候変化の影響を受けやすくなった原因である。例えば、多くの南東アジアの都市は津波や海面上昇の影響を受けやすいところや、地震・火山に対して危険な場所に位置している。と、EOS は設立の目的を中で述べている。
それにもかかわらず、南東アジアにおいては、危険に結びつく地理学的プロセスが十分に理解されていない。自然災害に対する教育、対応策、都市計画、経済・政治政策に効果的に取り組むには、これらの知識が必須である。EOSは、さしあたり地殻(tectonic)、火山噴火(volcanic)、および気候(climatic)を3つの対象分野として活動を始めている。
NTUの計画書には、”Southeast Asia” という言葉はたびたび現れる。たぶん意識的にだと思うが、「日本」という言葉はどこにも出てこない。しかし、EOSが地球科学、特に自然災害科学における日本の立場を十分に意識し、ライバル視していることは間違いない。EOSは新しく採用する20人の教授(大部分は科学者、ただし、コンピュータ工学、地震工学、公共政策、経済学の専門家を含む。)によって運営される。Kerry Sieh教授がカリフォルニア工科大学を辞めてEOSの理事長に就任した。同氏は、インドネシアの地殻運動、地震活動の研究者として高名である。また、Paul Tapponnier(地殻学)と Chris Newhall(火山学)の二人が、地震・火山グループをリードする。
私が08年12月にナンヤン大学を訪問した際には、Sieh とNewhall はすでに着任していた。Kerry Siehほどの学者がカリフォルニア工科大学を辞めてまでも赴任するには、それなりに魅力のある研究環境が必要だ。すでに完成した建物も立派で、ここで20人の研究者と多くの学生が活動するようになれば、「南東アジアのセンター」になることは間違いなかろう。現在、世界中から研究者を公募中だが、まだ日本からの応募はないとのことだった。
設備にも人にも感心したが、何よりも私が強い印象をもったことは、自国には地震も火山もないにもかかわらず、それらの観測の重要さに注目して、南東アジアの盟主になろうと名乗りをあげた心意気である。そのために、いくつかの南東アジアの国の研究機関や、欧米の有名な研究機関と協定を結んでおり、学内においても情報処理や経済学などの関係学科との協力関係をもつセンターを計画している。
現時点で予定されている当初10年間の予算は、総額で2億87百万S$(シンガポール・ドル)、1S$を60円で換算すると、約170億円にあたる。1年平均17億円という額が特別大きいと言えるかどうかには疑問もあろう。だが、わが国の文部科学省のセンター・オブ・エクセレンスなどに比べれば、少なくとも1桁は違う計画である。さらに、予算のすべてを国費によらない計画としていることに注目したい。初年度の1千万S$はほぼ全額を国費から、また7年目でもまだ半分を国費から得る計画となっているが、その後はNTUおよび産業界からの収入がしだいに増える。10年目の予算総額は約3千5百万S$、半分以上を産業界から、4割程度をNTUから、国費からは1割以下の収入しか期待していない。
産業界からの収入は6年目から始まる。10年の総予算額2億87百万S$の内訳は、国から1億5千万S$、7千万S$は大学自身が、残りの6千7百万S$を産業界が負担する予定になっている。国費とほぼ同額のマッチング・ファンド、とくに40億円を超える寄金を産業界から得るためには、大学の大きな努力が必要とされる。
地震学、火山学、地震工学、自然災害に関する研究において、わが国がアジアのみならず、世界をリードする立場にあることは、多くの専門家が認めるところであろう。しかし、完成時には恒常的に20億円以上の年間予算の機関をつくろうというEOSの野望は大きい。まだスタート段階だが、ここまでは順調に進んでいるように思われ、気がついてみたら、シンガポールがアジアの広い部分の地震・火山・自然災害研究をリードする研究機関をもっている、ということにもなりかねない。
海外・国内の研究機関、大学内外の専門を異にする研究機関との共働作業、世界的な専門家を引き抜いての研究所づくり、多額のマッチング・ファンドの獲得など、わが国の研究機関・研究者がもっとも不得手な部分での積極的な活動などを見ていると、わが国の研究レベルは世界一などと言っているうちに、世界はそう考えない時代が来ないとも限らない。
私の勝手な思い込みだが、まだEOSの存在を知っている人は多くはなかろう。先日、防災科学技術研究所(つくば)の熊谷博之さんに別件でメイルをしたときに訊いてみたら、さすが防災科研の国際通だけあって、「シンガポールの Earth Observatory の件は、私も知っています。Chris ともこの夏にアイスランドでの学会で会って話をしました。かなり大きな予算が動いているようで、Kerry Sieh のような大物を集めていることも知っています。地震・火山の先進国の日本なんてあぐらをかいていると、おひざ元のアジアであっという間に主導権を奪われてしまうと思います」という返事をもらった。 (2009.01.08.)
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