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トルコ旅記(その3)

 東京電機大学 教授 片山 恒雄


2001年1月10日(水)- 3日目

激震地へ向かう

 朝8時半にホテルを出発して、ジョルジュク、ヤロバへ向かう。

 マルマラ湾の最奥部から南側の海岸沿いのジョルジュク、ヤロバはマルマラ地震の被害がもっともひどかった地域である。

 9時、ジョルジュク市長を表敬訪問。ジョルジュク県にはジョルジュクを含んで9つの区がある。またまたパワーポイントを使った被害状況の説明。もはや、あまり目新しい情報はない。途中から県知事が合流。

 ジョルジュク県は、8月17日の地震でもっとも大きな被害を受けた県の1つである。全体の死者の3分の1にあたる5,383人が死亡した。最盛時には県内に5,830のテントからなる40のテント村ができ、2万6,178人の被災者を収容していた。これだけのテント施設をつくりあげるのに約1ヶ月かかった。知事がイラクからのクルド難民の避難に関係した経験を持っていたことが役に立ったという。

 テントとはいえ、トイレ、シャワー付き、小学校、幼稚園、子供の遊び場などをそなえたテント村である。これらのテント村のために、郊外に臨時の施設が必要となった。仮設のものを含めて11の学校と12の医療施設が外国政府などから寄付されている。ドイツ・トルコ協会が子供村、オランダ政府が病院など、ヨーロッパの国々からの寄付が目立つ中に、パナソニックという名前が付いた学校を見つけた。これは臨時校舎ではなく、すばらしい施設つきの学校だったが、日本はパナソニックという名前しか出てこないのが残念だ。

 いまは、210世帯、830人のテント村が1つ残っているだけで、8,965人が、2,214戸の仮設住宅に暮らしているほか、多くの人が郊外や周辺の親戚などの家に身を寄せて新しいアパートができるのを待っている。政府からの約1万ドルの支援を得て自力復興した人たちが5,700人ほどいる。もちろん、被害が軽かったため、自宅に戻った人もいる。

 国がつくっている被災者用住宅はジョルジュク県内で合計5,254戸、このうち1,686戸分を公共事業省が直接つくっている。これらは3階建てから6階建てで、約80平米のものと約100平米のものの2種類がある。建設は丘の上の地盤の良好なところで進んでいたが、時間がなかったので遠くから眺めるにとどまった。

 マルマラ海沿いの地域が大きく陥没して海底に沈んでしまったところでは、壊れた家のコンクリートなどを使って埋め立てが進めてられていた。海中から建物や電柱や木々が突き出ている様子は地震直後とあまり変わっているとは思えず、中破したスポーツ施設などがそのままで水中に残されている。

神の御心のままに

 昼食はマルマラ海に臨むレストランで魚料理。

 同席した赤十字関係の女性の言葉が心に残る。

 この人は、9階建てのアパートの最上階に住んでいて被災した。アパートは大破したため取り壊され、今はイスタンブールの父親のところにいるという。片道2時間近くかけてジョルジュク市へ通っているらしい。政府は何もしてくれないという。借家に住んでいた人たちには、さしあたり、新しい被災者住宅へ入る資格はないのだ。息子は軍の施設の家にいて、まったく被災しなかった。「いつかここへ戻りたいですか」と聞くと、「インシャラー(神の御心のままに)」とほほえんだ顔が印象的だった。

 午後はヤロバ市へ向かう。ヤロバ県知事を訪問。ヤロバ県の死者は2,504人と発表されているが、避暑に来ていた人たちが500人は犠牲者となっているので、合計3千人以上がこの地で亡くなった。地震の直後には、38のテント村に1万5,680のテントがつくられていた。自宅に戻ったり、親戚に身を寄せたり、自分で家を建てたりした人たちを別にして、地震後3ヶ月ほどのあいだに、5,682の仮設住宅をつくって被災者を収容した。仮設住宅の中にはテントも含まれていると思われる。

犠牲者の記念碑

 ヤロバは観光都市である。中心部の人口は7万(全体で17万)だが、夏にはこれが30万にふくれあがる。ヤロバ市はそれまで大地震の経験がなかったという。地震後、どうやって観光客が戻ってくるような都市によみがえらせるかが問題だった。海岸地域の美化などは随分苦労したという。市内の大学のキャンパスを地震の前より充実させ、地震でよそへ行った学生を呼び戻す努力をした。これは国の仕事だが市が行った。

 市長と一緒に街へ出た。8月17日記念碑は海岸にある。大きな花崗岩を無造作に積み重ねたように見えるこの場所には心を打たれた。1つが1メートルから2メートル角の花崗岩を積み重ね、亡くなった人たちの名前が刻んである。名前の頭には直径1センチくらいの穴が掘られていて、花がさせる。死者の名前もアルファベット順にしなかった。知り合いの名前を探すことで知らない人の名前も見て欲しいからだ。海に向かって両側に並ぶ花崗岩の壁の向こうにマルマラ海と青空が見えた。

 危機センターで知事自身から問題を訴たえられる。海岸沿いの地域では地震後、2階建てを上限とする高さ制限が敷かれた。前からあった建物に対しては、適切な補強計画が提出されれば、5階建てでも6階建てでも許可せざるを得ない。その一方で、全壊したビルを建てかえようとすると2階が上限となってしまう。これは矛盾しているのではないか。岡田黄門さまが苦労して説明していたが、補強された6階建てはオーケーで、その隣の新築は2階しか許されないというのは確かに理解できないだろう。

 海岸沿いで補強中のビルを見た。柱を太くし、柱の間に壁を新しくつくっている。間違いなく前よりは強くなる。問題はどこまで強くなっているかだ。床を突き抜ける部分の上下の柱がどれ位一体として働くようになっているか。柱と壁の鉄筋がどれ位一体となるように施工されているか。使われているコンクリートの性質はどうか。私が見ても疑問が残る。補強工法の選択と実際の施工を専門家が指導するシステムが必要である。特別な審査制度をつくり、施工前、施工中に十分な検査をすることを条件として高さ制限を緩和することを考えるべきではないか。

 5時半、郊外の温泉へ。ここはアタチュルク(ムスタファ・ケマル・アタチュルク、1881〜1938、トルコ革命の指導者、トルコ共和国の初代大統領。)も好んだところだという。近くのレストランで知事も一緒に夕食。アジアホテルへ戻ったのは午後11時。

 少し早くからトルコに来ていた室崎先生は明日帰国。明日からは黄門さまと2人になる。(その3の終わり)


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