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感じたまま神戸地震(その2)

 東京電機大学 教授 片山 恒雄


1995年1月18日(水)の日記−地震の翌日(NHK大阪支局のダビングルームにて)

 最初にテレビ出演の依頼を受けたのはNHKからだった。19日(木)の夜9時30分のクローズアップ現代である。「兵庫県南部地震」の何かを「検証」したいという。引き受けることにした。NHKの依頼を引き受けたので、その後のいくつかを断ることにしたが、これがなかなか大変だった。日米ワークショップのレセプションが終ってから、NHK大阪支局へ行く。東京から20人ほどものスタッフが来て、どんな番組をつくるかを話し合っている。小さな部屋で、何人かは立ったままである。いろいろな企画はあったが、どうやら東京の本局の希望は、なぜ多数の死者が出たかを中心に、建物の被害を検証してほしいということらしい。困ったことになった。日本では、土木と建築は見事な住み分けをしている。土木の私が建物の被害についてコメントするのは、本来望ましくない。しかし、ここまで来て後に引くわけにはいかない。修羅場なのだ。怒られるなら、怒られよう。夜NHKの7時のニュースを偶然目にしたら、同じ研究所(東京大学生産技術研究所)にいる岡田恒男先生が神戸の被災現場を歩きながらコメントしている。岡田先生は鉄筋コンクリート構造の耐震設計に関する世界的な権威である。ますますまずいが仕方がない。

 それまでに記者が撮ってきたビデオを見る。何が使えそうか、翌日1日かけてどんなところを中心に見てくるかの相談である。救出作業がまだ続いているところで、ビルがどんな風に壊れたかの検証なんてできないという意見がある。

1995年1月20日(金)の日記−地震発生から3日目(近鉄、新幹線の車内にて記す)

 いま、近鉄の特急で名古屋に向かっている。11時過ぎには名古屋に着く予定だ。16日(月)に東京を発つときから、会議に出て4泊して帰京するつもりだったので、予定通りと言えば予定通りだが、地震が起こってからまだ3日しか経っていないとは思えない。

 死者は4千人を超え、1923年関東地震以来の大惨事となった。1948年の福井地震を超える数である。

 17日の夜遅く、実際には18日の早朝にNHKでの打ち合わせを終えてホテルに戻る。幸いホテルはタクシーで5分ほどのところだ。ファックスと伝言をどさっとわたされる。多くは報道関係からである。シャワーを浴びようと思うがその気になれない。朝早く神戸に向かった山崎、目黒の両氏は帰ってきていない。テレビをつけて惨状を見る。夜空を焦がすようにして火災が拡大中だ。1時過ぎに電話が2つかかってくる。どちらも報道関係からで、わたしが大阪にいる以上、もう神戸を見てきて当然という口調である。まだと知ってがっかりしているようだが、それでもすぐには離してくれない。テレビをつけたままベッドにもぐり込む。

 18日(水)の朝6時少し前、目黒さんから電話がある。板宿の病院のロビーに泊まったそうだ。被害も火災ももっともひどかった地区のひとつである。山崎さんのご両親も一緒だそうで、お宅も壊れてはいないという。テレビを見続けているうちに7時半、ロビーにNHKの人が来ているという電話がある。確か8時に出発する約束だったのにと思いながら、そのまま支度をして下におりる。NHKスペシャルのクルーだという。確か私が約束したのは、同じNHKでもクローズアップ現代の人たちだったはずだ。そうこうするうちに、クローズアップ現代の人たちがミニバスでやって来た。すぐに出発しなければならない。

 ミニバスとタクシーの2台がペアである。国道2号を神戸に向かうルートは交通渋滞がはげしい。阪神高速は、神戸線も湾岸線も閉まっているので、救急、救援の車は全部国道2号を通って神戸に入ることになる。大阪在住のスタッフのガイドで豊中、伊丹の方から山側を通って西宮に向かう。こっちは、まだ大渋滞というほどではないが、のろのろ運転の場所が多い。地図と首っ引きでなるべく抜け道を選んで進む。この辺りの公団住宅風の鉄筋コンクリート建物にはほとんど被害がない。伊丹に近づくと、古い木造住宅の被害が目に付きはじめる。相当ひどい。ぺちゃんこになっているものもある。しかし、前の日に神戸近くまで行った人たちの話では、この先こんな被害はいくらでもあるという。(その2の終わり)


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