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感じたまま神戸地震(その3)

 東京電機大学 教授 片山 恒雄


1995年1月20日(金)の日記−地震発生から3日目(近鉄、新幹線の車内にて記す)

 名神、阪神高速、山陽新幹線の橋げたが落ち、橋脚のコンクリートがはげ落ちたところを通過する。私はカメラを持ってこなかった。使い捨てなら買えたのだが、あえてそれもしない。被害を記録に残す人はいくらでもいるはずだ。今日は、NHKと同行中で、ともかく家やビルが説明可能な壊れ方をしている絵を撮って帰るのが目的である。JR西宮の近くに車をおいて、あとは足で絵になりそうなものを探す。「報道は壊れたものしか見せない」などと言っていた、いつもの自分はどこへ行ってしまったのか。

 車を止めて撮影器材を降ろしていた駐車場で、中年の男の人が、「そんなところに止めたらじゃまになる」と、怒鳴ってくる。決してじゃまになるところに駐車するつもりはなかったし、実際じゃまにもなっていない。中年の女性が来て、「すみません、この方は住むところもなくなって気が立っているんです」という。すまないのは、こっちなのだ。

 結局、西宮付近の3つのビルと古い木造の家がたくさん倒れている地区を見る。1つめのビルは鉄骨造りの外にプレハブ版を張り付けた4階建てである。地下ガレージの入り口をふさぐように大きく傾き、低くなった方は2階建てに見える。映像を残す箇所をカメラマンに指示する。ここで3人が亡くなった。国道2号から2百メートルほど山側に入ったところである。さらに国道側に行くと、やはり4階建ての鉄筋コンクリート造りのビルで、地下が10本の太い柱で支えられたピロティー式のマンションがある。上の4階の部分は多少傾いているが、ひびわれ1つ見られない。しかし、全体を支える10本の柱の鉄筋がむき出しになり、ぐにゃりと曲がっている。もぐり込んでみると、数台の車がバンパーを地面にくっつけるようにしてつぶれている。住んでいる人の話では、家具はめちゃめちゃに踊っているが、壁などはまったくどうもないそうだ。荷物をまとめて避難所に行くところだという。マンションの廊下の手すりに布団が干してあるのが、妙なリアリティーで迫ってくる。

 もう1つのビルは8階か9階の店舗兼分譲マンションだった。国道2号に面した店舗は、中途階がなくなって1階分だけ低くなっている。裏側に回ると、住んでいた人たちが荷物を持ち出している。中に入ると、廊下の床は30度位傾き、すべすべの床の上で革靴が滑る。東京を出たときは、まさか大震災の現場を見るとは考えていない。

 最後に、たくさんの木造家屋が道を覆うように倒れている地区をひと回りする。大雨の被害なら、向こう三軒両隣が同じような被害をこうむる。震災は大違いだ。新建材と軽い屋根でできた新しい家は、少なくとも外から見るかぎり全然被害がない。その隣では、瓦屋根に土壁の古い家が完全につぶれている。家具も時代ものの箪笥である。比較的高齢の夫婦が住んでいたのかもしれない。この被害では、逃げるひまもなかったろう。新聞などに出る死亡者の年齢から、60才、70才以上の人たちの割合が高いことがわかる。

 そろそろ局に戻って番組のあらすじをつくりはじめる時間が近づいている。大阪に帰るにも時間がかかる。クローズアップ現代のキャスター国谷さんを交えて相談に入る。放送は翌19日(木)の夜だから、まだ1日以上あるのだが、実際にはぎりぎりのところへ来ているらしい。なぜ多数の人が亡くなったか。木造を中心にした個人住宅の崩壊が原因であることは明らかだが、強いはずの鉄筋コンクリートビルがたくさん倒れたことを後半に入れるという筋書きなる。ビデオを見ながら10人ほどのチームが相談する。ともかく、幕の内弁当みたいにいろいろ押し込むのは駄目らしい。シンプルな筋で、せいぜい3つ4つのトピックにしぼらなければならない。

 私は人の話を聞くときに目をつぶるくせがある。そのほうが集中できる様な気がするからだが、これがひどく疲れているという印象を与えたらしい。事実、この1日見てきたことは、どれもショッキングだった。大きなビルのことしか書かなかったが、西宮付近の国道2号沿いのお店は、被害の無いものを見つけることの方が難しい。たくさんの人がリュック、ボストンバッグ、紙袋を両手に大阪の方を目指している。西宮からは電車が走っている。自転車に乗った人も多い。逆方向に歩く数人ずれの背広姿も目立つ。こっちは、紙袋の中にペットボトルの飲み水やインスタント食品を詰め込んでいる。会社の同僚とかお得意さんへの差し入れだろう。山側から来る車は、緊急物資の運搬などで大混雑の国道2号に入らないように規制されている。それでも、神戸へ行く西向きの車はほとんど動いていない。大阪方面も、規制されて引き返す車で大渋滞だ。

 疲れているのは確かなので、翌日(19日)2時頃にまた打ち合わせをするということで、ホテルに戻る。ファックスやメッセージがだいぶ来ている。下着の上に寝間着を着て、ベッドにもぐり込む。電話の音で目を覚ます。週刊誌の取材だ。対応するが、疲れているらしい声は向こうにも伝わったのか、比較的短い。時計を見ると午前1時半である。

 19日(木)、6時前に目を覚ましてテレビをつける。山崎さんから電話があり、今日はなんとかして一度大阪へ戻るつもりだ、水を買って両親のところへ帰って、週末は一緒にいたい。続いて目黒さんから電話。昨晩は中央区役所に泊まったそうだ。

 予定通りなら、日米都市防災会議は、全体会議で総括をして、それなりの宣言文を全会一致で採り 上げて閉会するはずだった。地震のせいで2日目に行うはずだった、論文発表を中心にしたセッションは全部キャンセルにした。それでも、閉会式には日米の大部分の出席者が顔を見せた。今度の震災を日米共通の経験として、これからの研究協力を約束することが、会議の唯一の結論となった。

 2時半頃、NHKへ行って、夜9時半の生番組の準備に入る。およその筋は昨晩話し合っている。私が話すべき部分の確認である。私の意見をいくつか出して、変えられる部分を変えてもらう。しかし、どうも全体の話が面白くない。神戸と目と鼻の先の大阪にいるせいか、何千人もの犠牲者がなぜ出たのかを、家やビルの壊れ方などと関連させて議論する気にならないのだ。


 1月20日は、目黒さんと一緒に帰京した。東京駅でタクシーに乗って、いったん六本木の生産技術研究所に戻る。溜池を左折して高速道路の下を走りだしたとき、運転手さんが、「この橋が落ちてくることはないでしょうね」という。(全体の終わり)


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