東京電機大学 教授 片山 恒雄
ローマの世界地震工学会議に出席
シドニーから帰ってきたのは、1967年8月だった。「建築物の振動」という題の論文を提出してきた。あまりレベルの高い論文とも思えなかったので、結果に心配なしといえば嘘になる。3人の審査員のうち、学外が2人で、そのうちの1人はアメリカの大学の先生であることまでは聞いていた。さいわい、1968年3月付けでPh.D. (ドクター・オブ・フィロソフィー)をいただくことができた。
1967年10月から、伊藤学先生のご紹介で中央大学理工学部土木工学部に務めはじめた。授業の準備、卒論生の指導などに忙しかったが、毎日が充実していた。まだ30歳にもなっていなかったし、3年間も外国暮らしをしてきた人間に、ふたたび外国へ行く機会がすぐ来なくても少しも不満はなかった。
1971年、久保慶三郎教授(東大生産技術研究所)に声をかけていただいて、中央大学から東大の生産技術研究所(以下、生研と呼ぶ。)へ移った。シドニーへの留学も、中大への就職も、中大から東大への移転も、言ってみれば、周りの方々のお勧めに乗って流れたようなものである。久保先生が私の指導教官だと思っておられる人が多いが、私の指導教官は伊藤先生である。もちろん、生研に移ってからの長い間、久保先生にはたいへんお世話になった。感謝してもしきれない。
生研へ移った翌年、1972年にローマで開催された第5回世界地震工学会議に思いもかけず出席する機会があたえられた。佐藤暢彦さん(生研助手)と一緒にローマ市内の怪しげなバーでシャンペンを抜かれてふんだくられたこととか、浜田政則さん(前土木学会会長、早大教授)とソレントの海で泳いだこととかが鮮やかに思い出される。会議の後、佐藤さんと二人でウィーン、ミュンヘン、チューリッヒ、パリ、アムステルダムとおのぼりさん旅行をした。途中下車のインスブルックの駅でリュックを背負った入倉孝次郎さん(京都大学名誉教授)と出くわした。お互いにまだあまりよく知り合っていたわけでもなく、軽く会釈をしたぐらいだったが、私には忘れられない。先日、入倉さんにうかがったら、よく覚えているとのことだった。
日米科学協力セミナーの世話役
1970年代中頃から、バブルの時代が始まったのだろうか。当時30歳代の半ばだった私にも、外国へ行く機会が増えてきた。1973年の秋、久保先生が中心となって日米科学協力セミナーがバークレーで開催された。私はその日本側の世話役を引き受けて、初めてアメリカの地を踏んだ。
初めてだっただけ、思い出も多い。夜、サンフランシスコに出かけて、京大の若林先生と、かの有名な「ディープスロート」というポルノ映画を見た。会議後、ロサンゼルスの近郊にカリフォルニア工科大学を訪ねた。当時、カリフォルニア工科大学には、ハウスナー、ハドソン、ジェニングス、アイワン、トリフュナック等のそうそうたるメンバーがいて、世界の地震工学をリードしていた。これらの先生方とお会いした席で、私は、「もう飽き飽きしました」といって、全員の顔色を変えてしまった。「毎日毎日、英語ばかり話してきましたので」とつないで、今度は全員の爆笑を買ったのだが。アイワン教授とは、今でも仕事上の付き合いがある。もう35年以上ということになる。
帰りにハワイに寄った。キラウェア火山のあるハワイ島で横山さん(大林組)のお世話になり、ホノルルで飛行機を乗り継いで帰国した。ホノルルで時間があったので、ワイキキ・ビーチへ行って、久保先生に浜で荷物を見てもらいながら1時間ほど波乗りもどきを楽しんだ。砂浜に戻ってくると、久保先生は焼きそばを売る日本人二世のおじさんとすっかり仲良くなっていて、「君も、いただきなさい」と、まるで自分のもののように焼きそばをもらってくださった。ことほどさように、久保先生は気さくな人だった。
それ以後、覚えているだけで、3回は日米共同研究の日本側の世話役を務めた。1976年には、ライフラインの地震防災に関する日米共同セミナーを東京で開催した。このときのアメリカ側の責任者はカリフォルニア工科大学のジェニングス教授だったが、「ライフライン」という言葉はまだ地震工学の世界に定着していないと難色を示した。私は、「日本の参加者には、ライフラインという言葉こそ新鮮で魅力がある」と抵抗した。結果的には、ライフラインを主題にした世界で最初の研究集会になった。
アメリカの先生との付き合いに舞いあがっていた
アメリカの学会にもいくつか参加した。
1980年の夏、ニューヨークのコロンビア大学から出発して、トロント大学(カナダ)、カーネギーメロン大学、ノートルダム大学、イリノイ大学、カリフォルニア工科大学、カリフォルニア大学ロサンゼルス校、南カリフォルニア大学、スタンフォード大学を歴訪し、最後にサンフランシスコでアメリカ機械学会主催のライフライン地震工学に関連した学会に出席するという長旅をした。
この長い旅を通じて、それまでに知っていたアメリカの研究者とさらに親しくなった。当時のイリノイ大学には、ニューマーク、アン、ソーゼンといった一流の地震工学者が揃っていた。今は、誰もいない。ニューマーク教授のお宅にアン夫妻、ソーゼン夫妻と一緒に招かれて、上等のワインで夕食をご馳走になった。だいぶお歳を召されたなと感じはしたが、数ヶ月後にお亡くなりになるとは思わなかった。スタンフォード大学のシャー教授は、空港まで迎えに来てくれた。私41才、シャーは43才だった。あれ以来、シャー教授とは、いろいろな場で一緒に仕事をしてきたし、今も続いている。
そんなわけで、1980年代のはじめまで、私にとっての国際協力とは日米協力だった。アメリカの有名な研究者と個人的に知り合うことで、素晴らしい国際通になったと自負していたのである。確かに、この時代に培った米国研究者との個人的な関係は、いまでも大いに役に立っている。(その2の終わり)
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