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唐山地震の調査−私の国際交流(その3)

 東京電機大学 教授 片山 恒雄


贅沢な中国訪問

 中国には少なくとも12,3 回は行ったことがある。これらについては、どんなものだったか思い出せるというわけだ。ほとんどは会議出席のための短い旅行だが、とくに記憶に残る中国訪問が3回ある。1回は義母も一緒に女4人を引き連れて中露国境のマンチュウリまで行った家族旅行である。そして、あとの2回が、いちばん贅沢な旅行といちばん貧乏な旅行だった。

 1976年7月28日午前3時42分、中国河北省の100万都市唐山の直下にM7.8の地震が起きた。唐山地震である。私が、日米共同研究にとりつかれて、米国の研究者と知り合うことに舞い上がっていた頃である。死者24万2千人、重傷者16万4千人、死者のほうが重傷者より多いのは、逃げるまもなくレンガづくりの家の下敷きになって亡くなった人が多かったのである。周恩来、朱徳と、革命の立役者が立て続けにこの世を去るなか、毛沢東が82歳で死去したのは、地震の年の9月9日、地震発生当時の中国は文化大革命の末期に当たり、まだ閉ざされた国だった。

 そんなわけだったから、地震の直後にはほとんど情報が出てこなかった。死者の数も一時期は60万人とも100万人とも報じられた。中国とアメリカの関係は、大切なところでは、いつも日本を飛び越える。このときも、正式の調査団を先に送り込んだのは、アメリカであった。その報告書が興味深かった。何とかして、私たちも調べてやろう。

 唐山地震は、耐震性のない橋にも大きな被害を及ぼしたため、橋の耐震技術の専門家の派遣を日本に要請してきた。1980年12月、私は、日中経済協会が派遣した「日本橋梁振動技術訪中団」の4人のメンバーの1人として、はじめて中国に赴いた。東大土木工学科の伊藤学先生が私をメンバーに加えてくださったのだ。本四公団の理事を務められた大橋昭光さんと首都高におられた矢作樞さんがご一緒だった。

 北京、西安、上海をまわったこの旅が、いちばん贅沢な中国訪問である。このとき、北京では、中国側が唐山地震の被害状況を紹介し、日本側がわが国の耐震設計・施工の考え方などを説明した。私たちにとって、中国側の発表はどれもはじめて聞く話ばかりだった。

 寒くて暗い中国は、まだ自転車の国だった。真冬だったせいもあるのだろうが、何となくどんよりしていて、きりきりと寒かった。北京では、ほとんどすべての人が褪せた紺色の人民服を着ており、朝夕に大通りを流れる自転車の大群は恐ろしく感じるほどだった。会合を持つ部屋には暖房はなく、オーバーを着たうえに、一人ひとりの前に置かれた魔法びんから入れるお茶で身体を暖めた。大きめの茶碗に多めの茶葉が入れてある。これにお湯を注いでしばらくふたをする。おもむろにふたを開けて、上に浮いた茶葉をフーフーとかき分けながら熱いお茶を飲む。それでも、宿泊した北京飯店は当時の北京で最高のホテルだったし、皇帝料理の昼食も、本場北京ダックの夕食、どれも素晴らしかった。仕事のほとんどは北京で終わったようなもので、西安は完全な観光旅行、上海では大学訪問だけだった。汽車で上海駅に着いたときには、黒塗りのリムジンがプラットホームで待っていた。上海で泊まったホテルは、ニクソン大統領が訪中で使ったところだった。1つのフロアに寝室が2つ、応接室と会議室があり、部屋の前に靴を出しておくと翌朝にはぴかぴかに磨いてある。私は矢作さんと同じフロアに泊まったが、ニクソン訪中の際にキッシンジャーが泊まったフロアということだった。日中経済協会からいただいたお手当も十分すぎるほどで、何種類もの絹の布地、硯、墨、筆から、なんと大きな缶入りのビスケットまで抱えて帰国した。

唐山地震の共同研究

 そして、1981年8月、真夏の中国を18日間にわたって海城地震、唐山地震の被害を調査したのが、いちばん大変で貧乏な中国旅行である。

 実は、贅沢な中国旅行の年の春頃から、1976年唐山地震とその前年1975年に起き予知に成功したという海城地震に関する刊行物を集めはじめていた。来日した中国の研究者が置いていった論文、学生に頼んで中国書専門の本屋さんを回って集めてもらった資料もあった。1980年8月にカリフォルニア工科大学のジェニングス教授を訪ねたとき、米国の唐山地震調査団の一員として中国でもらったという一山の資料を見せてもらった。雑に紙ひもで結んだ資料は、彼のところにあっても役に立ちそうもなかった。もう30年近く前のことだから許してもらうことにしよう。その資料を黙って全部持ってきてしまったのである。このようにして集めた資料に目を通しているうちに、知らなかったものに対する興味がふつふつと沸き上がってきた。そんなとき、ちょうどはじめての中国旅行のチャンスが訪れたのであった。この旅行は,私の興味をますます掻き立てる結果となった。何とかして、私たちも調べてやろう。

 唐山地震と海城地震の被害を耐震工学的に解釈する日中共同研究をやりたいという、A4で数枚の趣意書をつくり、何の紹介もなく中国大使館に乗り込んだのは、1980年の夏のことである。中国側の共同研究者の名前さえ書いてなかったのだから、相手になった大使館の方も、どうしていいかわからなかったと思う。ともかく、本国に照会してみることを約束してくれた。それからの詳しいやりとりは覚えていないが、中国側は、国家基本建設委員会という大組織が窓口になってくれることになった。日本でいえば、国土交通省が正式なパートナーになったのである。日本側は、東大生産技術研究所の研究者を中心とした9人の私的グループだったのだから、両者は格が違いすぎたが、中国側は気が付かなかった。ちなみに、9人のメンバーは、岡本舜三、久保慶三郎、田村重四郎、柴田碧、片山恒雄、龍岡文夫、韓国城(大連工学院)、小川好(東京都)、野中昌明(中央大学)であり、柴田は中国の調査には参加しなかった。

 つぎは資金づくりである。1980年11月、田村重四郎先生(当時・東大生研教授)を代表にして、「唐山地震を含む最近の中国の地震被害の耐震工学的解釈に関する日中共同研究」という長い名前の研究に対する助成を鹿島学術振興財団に申し込み、幸い結果的に3年間助成金をいただいた。1年目が400万円、2年目が300万円、3年目が200万円だった。だが、初めから3年分がいただける約束ではなく、毎年、つぎの年の申請をするという形だった。

 1年目は、400万円で、8人が3週間近く中国の調査旅行に行き、4人の中国人研究者を2ヶ月日本に招待したのだから、会計的には火の車だった。

 こうして、1981年8月、北京から、ハルビン、鞍山、大連、瀋陽、唐山、天津をまわって北京に戻る18日間の調査旅行が実現した。当時は,メールどころかファックスもほとんど普及していなかったから、どこを訪ねたい、何を見たいというのも、ぜんぶ手紙でのやり取りだった。

苦労も多かったが

 ハルビンでは、地震工学研究の中心である工程力学研究所を訪ねた。工程力学は構造力学の意味である。中国側がつくってくれた予定の中に、なぜか子供の国の訪問が入っていた。行ってみると、たくさんの子供たちが入り口に並んで楽隊付きで私たちを歓迎してくれた。

 私たちは,ビデオ撮影の許可をお願いしていたが、唐山市の一部を除いてすべて許可された。これは異例のことで、アメリカの調査団も許されていなかった。ところが,あのころのビデオは重かった上に,外付けのバッテリーがまた重かった。ビデオを撮る人とバッテリーを担ぐ人がコードでつながって動かなければならず,二人の機嫌が合わないときなどは,撮影以前の問題の方が大きかった。約10時間分のビデオ映像は,研究に使うこと,不特定多数を対象に見せないことという条件付きで,そのまま持ちかえることができた。

 唐山地震が起きてから5年が経っていたが,唐山市内には地震の爪あとがいたるところに残っていた。何カ所かの被害は,わざとそのまま残されていた。興味を持ち始めてから1年,とうとう唐山に来たという感慨は大きかった。それは,また、やる気になれば、公的サポート無しでもここまでできるという自信でもあった。

 貧乏旅行ではあったが,内容は充実していた。行きたいところには,全部行くことができたし,見たいものも全部見たと思う。ところが,これは,中国側の大変な思い違いの上に成り立っていたのである。

 旅行も最後にさしかかってきたとき,全期間私たちと同行してくれた国家基本建設委員会の人が,「ところで,将来の中日共同研究について話し合いましょう」と,切り出してきた。私たちは,1年目には,4人の研究者を東大生産技術研究所に招待することを約束していた。中国側としては,1年目は準備期間で,これから国と国のレベルの共同研究に発展するものと思っていたのである。そのときになって,なぜ子供の国で国賓待遇の歓待を受け,行きたいところにどこでも行かせてくれたのかが、初めてわかった。中国側は、日本国を代表する調査団が来たものと思っていたのだ。当時の中国にとって、まったく私的なグループが、こんな調査をするとは予想もしなかったのであろう。この誤解を解くには10時間に及ぶ話し合いが必要だった。なにしろ、私たちが持っていたのは、1年分の予算400万円だけだったのである。

 この文章を書くにあたって、当時の資料を探していたら、話し合いの結果をまとめた、「耐震構造日中共同研究に関する合意書」なるものが出てきた。もはや読みにくいところもあるゼロックスの一部を示しておくが、苦労の末合意に達したことが思い出される。

−前略−
1981年度(1982年3月31日まで)の実施計画
   1.日本側は中国から4名の研究者を最長60日間東京大学生産技術研究所へ招請する。
   2.中国側研究者が日本へ到着する時期は1982年1月10日から同年1月20日の間の適当な日とする。
   3.1981年度の共同研究の主要課題は唐山・海城地震被害の工学的解釈とするが、必ずしもこれに限らない。
   4.中国側研究者は訪日にあたり、共同研究に必要な震害資料等を持参する。
−中略−
1982年度以降の方針
   1.1982年度以降、この共同研究がさらに充実するよう双方で最善の努力をする。
   2.日本側は、東京大学生産技術研究所の研究者を中心としたグループで共同研究にのぞむ。
   3.日本側は中高層建物の耐震性の研究を共同研究の課題とすることに賛意を示したが、その進め方については
     今後検討する。
   4.産業施設の耐震性の共同研究に関しては、中国側研究者の選定につき、今後主として中国側で検討する。
   5.上記3,4については、できるだけ1982年度に開始できるよう双方で努力する。
−後略−

 1982年1月16日から2ヶ月間、中国側の4人の研究者を東大生研に迎えることができた。4人が住める家を2ヶ月だけ借りるのは難しかった。家が見つかると、冷蔵庫、洗濯機、テレビ、布団、机、いす、なべ釜から食器までを準備した。帰国の際に、成田空港まで見送りに行ったが、4人全員がテレビをお土産に持って帰ったのも、今から考えると時代の違いを感じる。3年の間に9人の研究者を延べ21ヶ月間招いて共同研究することができた。最後の頃には、田村先生と私は、短期間の借家探しのプロになっていた。中国側の強い希望にこたえ、1983年10月約3週間にわたり、岡田恒男先生が建築構造の耐震性と耐震診断法の講義のため上海同済大学を訪れた。

 3年の共同研究を終えた後で、私はこう書いている。「この3年間に、私たちと中国の地震工学研究者の間には、太くはないかもしれないが、確かなパイプができたように思う。これからどう進むかをはっきり言うことはできないにしても、3年間の共同研究は意義あるものだったと自負している....私たちの共同研究は小規模で、かつ公的バックアップの無いものだった。そのために大変であったこともあるが、逆に言えば、だからこそ、たった3年あまりの間に、願望が計画へ、計画が実施へ進められたのだと言える」

 あれ以来、アジアを中心とした地震工学の途上国との国際交流をいろいろな形で続けてきたが、唐山地震の被害調査に始まった中国研究者との協力がすべての原点となっている。また、2008年10月に第14回世界地震工学会議が北京で開かれ、私は国際地震工学会の会長として中国の人たちといろいろなやり取りをしたが、1981年以来の友人ということでずいぶん得をしたように思う。(その3の終わり)


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