東京電機大学 教授 片山 恒雄
1992年マドリッドまで
1984年にサンフランシスコで開かれた8WCEEにおけるフランク・プレスの提案が、1987年国連総会の決議となり、1990年1月1日から「国際防災の10年(IDNDR)」として実現したことは、すでに述べた。
WCEEの参加者は、1984年のサンフランシスコでも、1988年の東京・京都でも、プレスの提案をなるべく早く実現すべきことを決議した。例えば、1988年の9WCEEでは、その前年に国連総会の決議がなされていたこともあり、IAEE が IDNDR にもっと積極的に関与すべきだという意見が強く、それにそった決議がなされた。9WCEEを機会にIAEEにIDNDR委員会を発足させ、カリフォルニア工科大学のHousnerに委員長を依頼した。しかし、この委員会も実質的な活動はできず、私はHousnerからIAEEはもっと具体的な動きを始めるべきだという手紙を何度ももらうだけの結果になってしまった。
1991年秋、東京で東京都と国土庁が地震サミットを開催した。この機会にIAEE主催のワークショップを開いて、IDNDRへの関与を議論することにしたが、参加者のIAEE、すなわちその事務局長としての私への批判は厳しかった。IAEE 事務局はそんなに力のある機関ではないこともわかってほしかったが、そうもいかない。
まず、IAEEの立場を示す印刷物をつくり、それをもとに1992年にマドリッドで開催される10WCEE で討論することにした。そこでIAEE事務局は米国のEERI (Earthquake Engineering Research Institute) にたたき台となる印刷物の作成を依頼、IAEEはH.C.Shah, W.D.Iwan, C.C.Thielの3人からなるワーキング・パネルをつくり、1992年2月ごろから作業を開始した。IAEE事務局は草案をレビュウする5人の専門家を選び、何回かのやり取りの結果、1992年7月上旬IDNDRに関するIAEEの基本姿勢を示すパンフレット”A Time for Action: World Seismic Safety Initiative”をまとめた。この印刷物は、10WCEEの前にIAEE理事、各国の組織代表者に郵送された。WSSIが軌道に乗ってからは、ShahとIwanの活動が目立つが、パンフレットづくりの段階では、Thielの貢献がいちばん大きかったのではないかと、私は考えている。
WSSI前史
この印刷物の中で提案されたのが、World Seismic Safety Initiative(WSSI:世界地震安全推進機構)である。マドリッドの世界地震工学会議では、丸1日かけて、IAEEのIDNDRへの関わり方について議論した。午前中は、各国・各機関がどのような取り組みをしているかを報告しあい、午後は前述の印刷物をもとに、「IAEEはIDNDRにどう関与していくべきか」の議論に費やした。国際学術団体は学者・研究者の集まりであり、口は達者だが計画を実行に移すとなるとからっきしダメな人間の集まりである。この特別セッションもご多分にもれず、いろいろな意見は出てきたものの、結果的には、新しい機構WSSIをつくることだけしか合意できなかった。しかし、この合意は、IAEEの理事会、総会で決議され、事務局長として私はもはや退路を断たれたという感じだった。
WSSIの基本理念を私なりにまとめると、「地震による物的・人的被害の大部分は構造物の崩壊による。構造物の耐震性の向上こそが、安全な明日を保証する唯一の方法である。世界全体でみれば、必要な知識や技術はすでに存在する。WSSIは、これらを有効に活用して、地震の問題に取り組む技術的・経済的な余裕のない国ぐにを支援する」とでもなろうか。
WSSI理事会メンバーはIAEE理事会の承認を得なければならない。そこで、まず、設立準備委員会をつくった。メンバーは、W.D.Iwan, Roberto Meli, G.W.Housner, G.Grandori, C.C.Thiel, H.C.Shah, 土岐憲三に私を加えた8人であった。8人のメンバーが地域的に偏っていることはわかっていたが、それぞれが旅費も宿泊費も自前で集まることを考えれば仕方がなかった。第1回の設立準備委員会は1992年9月東京で開催した。このとき、出席するはずのHousnerがやってこない。「空港まで来てパスポートを忘れていることに気がついた」と、Iwan が後でこっそり教えてくれた。
この会合でも、あまり具体的な結論は出なかった。特別の事務局も予算もなかったのである。ともかく私とShahが共同で委員長を務め、走りながら考えることにした。WSSIの正式発足は、1992年9月1日、国連がIDNDRをスタートさせてから2年9カ月後ということにしてあるが、それ以前にもWSSI前史とでもいうべき活動があった。現在、WSSIはシンガポールに非営利会社として登録してあり、2003年からの2年間私が会長(社長?)を務めた以外は、Shahが会長を務めている。非営利会社はわが国のNPOとほとんど同じ性格のものである。
偶然だが、1992年の9月から3カ月間、Shahがスタンフォード大学からサバティカルリーブをもらって、東大生研のINCEDEに滞在していた。また、私は、1992年6月ごろ、PSA (Pacific Science Association) に新しくできた自然災害軽減特別委員会の委員長になっており、PSAは翌1993年6月に沖縄で会議を開くことになっていた。1992年10月ごろのことだが、1993年2月にIDNDRの科学技術委員会がニューデリーで開催されることを知った。
私とShahは、この2つの国際的な会合をWSSIのお披露目の場にしようと考えた。また、ニューデリーを往復するだけでは航空賃がもったいないので、その際に、バンコクでミニワークショップを持つことにした。さらに、WSSIの実質的な事務局としての仕事はINCEDEが担うことにした。お金もスタッフも無いWSSIの活動をINCEDEとともに支えたのが国連大学である。その後WSSIが主催したいくつもの国際ワークショップの開催費を国連大学が負担し、INCEDEが事務局を引き受けた。たとえば、1993年6月の沖縄PSAのWSのときは、40人ほどの出席者のうち、途上国からの参加者には何らかの財政的な援助をし、約10人に対しては、国連大学が旅費・宿泊費の全額を支弁してくれた。当時積極的に協力してくれた国連大学のJuha Uittoは現在UNDP(国連開発プログラム)にいるが、この原稿を書くにあたって、かれのブログに掲載されている写真を見ると、あのころを思い出す。
こうして、1992年の秋口から冬にかけて、沖縄とバンコクの国際ワークショップの企画が形をとりはじめた。IDNDRの科学技術委員会には、Shahと私が出席した。WSSIの紹介はおおむね好意的に受けとめられ、IDNDR事務局の正式プロジェクトの1つとなったが、その後、これで得をしたことは何もない。このあたりから、前史なのか正式の活動なのか、ほとんど区別がつかなくなってくる。
バンコクWSとハイレベル・ミィーティング
ニューデリーの会議の直後に、アジア太平洋の途上国を中心に、震災対策が不十分と思われる20ヶ国から30人ほどの研究者や実務家をバンコクに招待して、それぞれの国で何が問題になっているかを話し合うワークショップを開いた。バンコク郊外のゴルフコースの宿泊施設に3日間泊り込み、途上国からの参加者の旅費・滞在費はWSSIが負担するかわり二人一部屋で我慢してもらった。バンコクWSの参加者に対する航空券、宿、会議室の手配などはすべてINCEDEが行った。何度もこういった経験をつむうちに、INCEDEの秘書の人たちはプロ以上に心のこもった仕事ができるようになった。宿泊も会場もゴルフコースの施設を使うことで、3泊4日のバンコクWSを300万円足らずで開くことができた。日本で開かれる国際会議が、すぐに1千万円を超えてしまうのを見るにつけ、どこに無駄があるのだろうと考えてしまう。バンコクWSはその後ほぼ5年おきに2回開催した。3回目のときは、OYOの大矢暁会長が他のコンサルタント会社にも声をかけてお金を集めてくださった。いずれも予算は300万円たらず、4回目もと思っているが、なにせいまは景気が悪すぎる。
バンコクWSでの発言は活発だったし、率直だった。具体的な問題の提案もあった。「何かできるかもしれない」という、漠然とした自信のようなものが得られた最初の機会になった。そのとき提案されたことの1つがハイレベル・ミーティング(HLM)である。国の政策決定に関わる人たちに、地震防災の大切さを理解してもらうための会合を開いてほしいというのだ。そこで、HLMを開きたい国が手はずを整えてくれれば、WSSIの理事が自費でその国に出向いてHLMを開催することにした。大臣クラスの防災関係者や影響力のある研究者に対して、「なぜ地震防災が大切か」「地震防災はペイするか」などを説明する。普通は、1日目にHLM、2日目には参加者をもっと広げて講演会を開く。これまでに、クアラルンプール、シンガポール、カトマンズ、ダッカ、コロンボ、ヤンゴン、ハノイ、カンパラ(ウガンダの首都)、ウランバートルの9つの都市で開催した。カンパラで開いたHLMには、大統領みずからが出席した。(その7の終わり)
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