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ネパールの成功、ミャンマーの失敗−私の国際交流(その8)

 東京電機大学 教授 片山 恒雄


ネパールの成功

 1992年のことだったと思う。カトマンズ市の市長だという人から、突然、電話がかかってきた。世界市長会議で東京に来ているが、会えないだろうか。夕方は会議のディナーがあるので、その前に会いたい。もう4時に近い時間だったので、「夕方になると道路も混雑しますよ」と忠告して電話を切ったのだが、30分後には市長さん一人で地下鉄に乗ってやってきた。地震のときカトマンズがどうなるか心配だ、相談に乗ってくれまいか、というのである。もちろん、即答はしかねたが、地震国ネパールとシン・カトマンズ市長の名前は私の頭に強い記憶を残すことになった。そこで、1993年2月に開催したバンコク・ワークショップに、ネパールの人を呼び、1993年11月、ネパールでハイレベル・ミーティング(HLM)を開くことにした。このとき、ネパールから呼んだ人が、ご存知の方もおられるだろうが、アモド・ディクシットである。彼は、その後、ネパールにおける地震防災活動の牽引車となった。

 シン市長は民主化運動で牢屋に出入りを続けた人だが、シンさんの亡くなったお父さんはネパール民主化の父と呼ばれる人物であり、両親揃って民主化の闘士だった。HLMに出席するためにカトマンズに着いた日、街を案内してもらったが、たくさんの人たちが市長さんに挨拶しに来るのが印象的だった。市役所は、古い木造3階のウナギの寝床のような建物で、そのいちばん奥にある市長室でシン市長は1日200人もの市民と直接会うことがあると言っていた。食事に連れて行ってもらった後で、シンさんのお母さんにお会いした。たくさんの若い人たちがわいわいと(たぶん)政治を論じている様は、ミニ梁山泊といった感じだった。

 ネパールにおけるHLMの効果は劇的とさえいえる。アモド・ディクシットという、地震防災を進めるための機関をつくりリードする人材に恵まれたことも大きい。また、国が小さいので、経済的支援の効果が見えやすく、国際的支援が集まりやすいという利点があったことも見逃せない。アメリカの防災NPOが中心となった小学校の耐震化プロジェクト、定期的に新聞に掲載される地震に関するコラム、大工さんやレンガ工に対する耐震技術の教育など、地震防災への知識はゼロといってよかった国が、少なくとも地震の問題に大きな関心を持つようになったのである。だからといって、まだ地震に対する危険が減ったわけではない。

 2001年1月にインドで起こったグジャラート地震の復興に当っては、ネパールのレンガ工が現地に行ってインドのレンガ工を指導した。その数年前まで、ネパールでは地震のことなどまるで考えられていなかったことを思うと、まさに隔世の感がした。

ミャンマーの経験

 第1回バンコクWSに招待したミャンマーの若いエンジニアが、ミャンマーでHLMを開いてほしいと頼んできた。当時のミャンマーは電話連絡もむずかしく、ファックスはほとんど通じない。やっとつながった電話に出てくる人は、英語が話せない。話したい人にたどり着くまでに、電話は切れてしまう。今でこそ2,3日でビザがとれるが、当時はそんなに簡単ではなかった。

 最初にミャンマーを訪れたのは、1996年のことである。事前の打ち合わせは不十分だったが、私たちは楽観的だった。それまでにいくつもの国でHLMを成功さていたし、行けば何とかなると考えていたのである。ところが、ミャンマーに着いてみると、何の用意もできていない、誰もWSSIなど知らない。仕方がないから防災に関係しそうな機関を1つずつ訪ねたが、行く先々で、「ミャンマーにそんな忠告はいらない」とけんもほろろだった。

 そんなわけで、1回目のミャンマー訪問は大失敗だった。しかし、私たちはまだ楽観的だった。「誠実さは通じる」と、信じていたからである。帰国の直前に、私たちにHLMを開いてほしいと頼んできたエンジニアがホテルに来て、この次はうまくいくようにしたいと言ってくれた。まず地道な努力から始めた。1回目の訪問で、ミャンマーには地震計がほとんど無いことがわかったので、日本のコンサルタント会社に頼んで地震計を10台寄付してもらい、2人のミャンマー技術者を日本に招いて操作法を教育してもらった。これらの活動はOYOの大矢さんが強く支援してくださった。また、日本で開かれるワークショップなどに関係者を招待した。

 そうこうしているうちに、今度はミャンマー側からぜひ来てほしいという正式の招待があり、1999年にHLMを開催した。この席には、関連大臣が出席して、WSSIの訪問を感謝してくれた。ミャンマーの都市でも10階程度の高層ビルの建設が始まり、その耐震安全性について専門家の意見が必要となっていたのだ。だが、そのときには、前回私たちに来てほしいと言った若いエンジニアは亡くなっていた。単なる偶然なのだろうが、なんとなく嫌な感じがした事を覚えている。その後も、何回かのレクチャー・ミーティングを開催し、教科書や構造解析ソフトウェアの寄付などを続けた。

 2003年に数人の犠牲者を伴う地震が国内で起こり、2004年にはスマトラ沖津波の影響を受けたこともあって、地震防災に対する関心は高まっている。大学に地震工学の講座ができ、ミャンマー地震工学会が設立され、耐震設計基準の策定が進められている。2007年の初めには、断層と地殻構造に関するワークショップが開かれ、WSSIは開催費の一部として5千ドルを負担した。このワークショップは”Ohya Memorial Workshop”と名付けられた。ミャンマーの場合の問題は、国内の不安定な政情である。事実、予定していた耐震設計の講義を中断せざるをえなかったこともある。

 その他、WSSI に関してもっとお知りになりたい方は、
     http://www3.ntu.edu.sg/WSSI/index.html
をご参照いただきたい。

WSSIの活動から学んだこと

 HLMを含み、今までWSSIが関係した国の数は少なくとも20位になると思うが、うまく いった例の方が少ない。ネパール、ウガンダ、ミャンマーのような例はむしろ例外なのである。もちろん、これらの国でも、まだ地震に対する危険が減ったわけではない。シンガポール/ネパール/ハンガリー/ウガンダ/タイ/パキスタンなどのIAEE加入はWSSIの活動によるものと言える。

 2001年インドで起きたグジャラート地震後、このような機会を逸すると本当の震災を見ることのできない人たちを中心とした調査団を派遣した。さらに、途上国の若い研究者が国際的な研究集会に出席する費用の一部の援助とか、ミャンマーのWSの開催費の補助など、例外的に、直接お金によるサポートもしてきたが、WSSIはFunding Agencyではない。しかし、私たちは、途上国対応を考えるときには、お金よりやる気のある人たちのグループのほうが大切な場合もあると信じている。

 グジャラート地震の被害調査について少し詳しく書いておきたい。大きな被害地震が起こると、日本からは5つも、6つもの調査団が被害調査に行って、同じようなレポートをまとめる。ところが、途上国のエンジニアや研究者の中には、隣国で起きた被害の調査に行く余裕さえないところもある。グジャラート地震のときには、このような人たちを中心とした調査団をつくって被災地に送り込もうということになった。(実際には、途上国の人たちだけではなく、多様な視点から災害を眺める先進国の関係者にも参加してもらった。)このような調査がきわめて大きな意義をもつことが分かると同時に、メンバー選びからスケジュール決定までの計画づくりがいかに難しいかを感じざるをえなかった。グジャラート地震の場合には、被災地の土地カンを持っているということもあって、ハレシュ・シャーがこの役を買って出てくれたからできたようなものであった。

 WSSIは「国際防災の10年」の活動を、IAEEの立場から支援するためにつくられた機構である。しかし、結果的には、かなりの独立性を持って自由に動く機構になった。これが、ボランティア・グループの良いところであるが、IAEEの理事の中には、反感を示された人もおられた。その後、WSSIは、シンガポールで非営利会社として法人化したが、理事の個人的な持ち出しによるボランティア・グループの性質は基本的に変わっていない。私個人としては、WSSIの活動は、IAEEの活動の延長と考えている。

 多少うまく行かないことがあっても、笑いとばす位の気持ちを持たないと、途上国での活動は難しい。いやいややることは長続きしない。アジアの途上国が日本にかける期待の大きさは十分意識しながらも、どこかに息抜きを残した関係のほうが、長続きもし、より密な個人的な関係ができるというのが、私が得た教訓である。(その8の終わり)


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